第38話 センバ・ムロラン -更に次から次へと-
速いボール、伸びのあるボール、大きく曲がるボール、鋭く変化するボール、日本で最高レベルの投手が集うプロ野球。しかし、誰もチルチルには通用しない。全て見極められてしまうので、正確なコントロールも意味がない。
チルチルを攻略する道はほぼ塞がれたように思われた。普通の方法ではだめだ。
川崎ロケッツのセンバは、突然一軍に呼ばれた。高校から育成選手として契約されたが、四年間一軍での登録はなく、今年も目立った活躍は出来ていない。センバ自身も、毎年現れる新人たちの豪速球を目にし、やはり自分の能力では勝ち抜いて一軍の座を奪い取るのは難しいのではないかと、毎年落ち込んでいた。
センバは、高校時代には、地元の鹿児島県で超大型投手として有名だった。二メートル八センチの身長は、他にはない武器になる。手も長いので、上から投げ下ろすボールが角度がある。打者から見ればピッチャーが近くに見え、それだけで威圧感がある。
チームの打線も弱く、高校で目立った成績は残せなかったが、幾つかの球団は、その大きな体に注目した。ただ、ボールには強豪校の打者を圧倒するほどの威力はなく、どちらかと言えば、上から投げ落とされる縦のカーブが決め球になっていた。
ロケッツは、大きな体を鍛えれば、大型投手として、角度のある直球とカーブを武器に先発ローテーションに入るような投手に、大化けするのではないかという期待を込めて、育成選手としてドラフトで指名した。
残念ながら、プロに入ってからも、センバの球威は上がらなかった。センバ自身も、他の選手をけり落としてでもはい上がる闘争心が欠けているのは判っていた。このまま自分は拾い上げられずに、消えていくのだろうかという不安はあった。
確かに大きな体の長い腕から投げられる大きく落ちるカーブは、最初は面食らうが、何度か対戦すれば覚えられるし、何よりカーブを活かすための力のあるストレートがなかった。何回か対戦すれば、攻略は難しくはなかった。
ただし、一打席ならあのカーブは通じている。
監督と投手コーチは、ドルフィンズとの連戦を前に、作戦会議を開いた。とにかく一打席、いや一球だけでも、打ち損じさせればいい。その先に十億円がころがっている。
ただ、一軍の先発、リリーフ陣の中でとても通用するような秘密兵器がいるとは思えなかった。他球団の日本を代表するエースや抑えの切り札が、全員が打たれたのだ。残念ながらロケッツの一軍に、彼ら以上の決め球を持つ投手はいない。
「二軍にすごいのはいないか?」
監督は二軍監督に聞いた。
「すごくはないですが、面白いピッチャーはいますよ」
「誰だそれは」
二軍監督は、真上から落ちてくるようなゆるいカーブを投げる大男がいることを、会議で話した。
二軍の寮で、昼寝していたセンバに呼び出しがあって、突然の一軍行きの指示が出た。何より本人が一番驚いた。
三日前の試合でも一イニングで三本のヒットを打たれ二失点して、降板していた。クビなのかとドキドキして事務所に行ったら、まさかの一軍昇格の通知だった。もしかして、クビになる前の最後のご褒美なのかと、逆に心配になった。
スポーツ新聞には一軍昇格選手の中にセンバの名前があったが、ドラフトの後には多少騒がれた背の高いノッポの投手のことを、覚えているファンは、少なかった。
一軍に合流し、新川崎球場に入ると、なかなか会うことのないチームのスター選手たちが沢山いて、緊張した。
ピッチングコーチに呼ばれた。
「いいか、なるべく練習を見られるな。目立たなくしておけよ」
話はそれだけだった。サインの打ち合わせすらなかった。
自分は背が高いので、目立たなくするのは極めて難しい。仕方がないので、室内のブルペンからなるべく出ないように決めた。特に大きな縦のカーブだけは絶対に見られないようにと言われている。投球練習も、周りに記者やカメラマンが誰もいないか確認しながら投げるので、精神的に疲れた。
監督やコーチは、あえてチルチルとぶっつけ本番の勝負をさせることを、センバには黙っていた。この大男は、肝はおおきくないらしい。だったら、いきなり投げさせた方がいいだろうと考えた。
初めての新川崎球場での試合。チルチルは第一打席にホームランを打つと、その後もドルフィンズ打線が火を吹き、七回を終わって、1対8と、逆転はかなり難しい状況になった。
ブルペンのセンバに、準備をしろという指示が出た。きっと、まずは敗戦処理として使われるのだろうかとセンバは思った。
八回の表ツーアウトをとると、次のバッターはチルチル。そこで、ブルペンに電話がかかり、センバが呼ばれた。
「おい、いくぞ」
おや、まだ回の途中だけど?
心の準備をしていなかったセンバは驚いた。慌ただしくベンチに戻ると、監督から「頑張ってこい」という一言がかけられた。すでに、負け試合の雰囲気がベンチに充満しているのか、みんな笑顔でセンバを見た。ああ、きっとそんなに期待もされていないのだなと判る。
初めての一軍のマウンドに向かうと、場内からどよめきが起こるのが判った。きっと自分の背の高さに驚いているのだ。心の準備も戦略もなくマウンドに行くと、バッターバックスには世界最高のホームラン・バッターがいた。
キャッチャーがマウンドに来ると、「いいか緩いカーブを低めに、ボールになってもいいから何も考えずに投げろ。サインなんか振りだから見なくていい」と偉そうに指示して戻っていった。センバは、恐縮してうなずいた。
始めての一軍のマウンド。地面が足についている感覚もない。ただ確かに自分は夢の舞台にいる。子供の頃から憧れた、プロ野球の公式戦で投げているのだ。とにかくサインにうなずく振りだけして、言われた通りに大きく上から落ちるカーブを投げた。
緊張のせいなのか、狙いよりも低く、キャッチャーの手前でワンバウンドしそうな高さになった。それは結果として悪くはなかった。
たとえスカイツリーの展望台からボールを落とされても、チルチルはちゃんとボールを水平に打てるかもしれない。センバのカーブも、チルチルにはすくい上げるに丁度良い角度だった。何よりも新川崎球場は、ドームと違って屋根が無いので、どれだけ打ち上げても天井を気にする必要がない。高い高い打球は、場外へと消えていった。
センバは、この一球でマウンドから下された。喜びも悔しさも何もなく、ただ夢のような試合が終わった。
その後、センバはリリーフで二試合に登板、計二インニングを無失点で抑えた。しかし四試合目に打ち込まれて、ワンアウトも取れずに三失点すると、その後は打たれる試合が続き、結局六試合で防御率9.00を記録。二軍へと戻った。
仙台エンジェルスの作戦会議、最大の課題は次の試合ではなく、翌週のドルフィンズ戦、つまりはチルチルへの対応だった。
前回の対戦では、チルチル一人で6点を取られた。スコアラーの記録など見る必要がなく、どんな球種、どんな配球で、どのコースに投げても、バットが届けばすべてホームランになる。
普通に考えれば、全て敬遠だが、十億円の餌をぶら下げられた上に、オーナーからハッパも掛けられている。しかし、まともな方法では勝てそうにない。会議は沈んだ空気の中進んだ。
「なんか、すごいのはいねえのかい」
監督の一声に、ピッチングコーチが答えた。
「あのお、変わったのは一人いますが」
ムロランは社会人野球から入団した二年目の投手だったが、左右両方の腕で投げられるという特技を持っていた。
アマチュアの時は試合では右でしか投げていなかったが、左も同じように投げられると言うので、二軍コーチが投げさせてみると、結構いい球を投げ、しかも器用にカーブも投げられた。
左右両方投げられるリリーフがいれば、投手の節約にもなる。二軍のピッチングコーチは、左右両方の練習を続けさせていた。ムロラン用にどちらの手にもはめられる特殊なグローブの開発もさせていた。
二軍の試合でもまだ左投げは披露していなかった。これはもしかしたらと、チルチルに驚きを与えるかもしれない。驚きが瞬間の勝負では命取りになる。
ムロランをリリーフではなく先発させたのは、三番打者のチルチルの前に打つ二人のバッターを使い、右投げの先入観を植えさせるためだった。マウンドでの練習も、右でしか投げさせなかった。
一番バッターをセカンドゴロでアウトにしたが、二番バッターにセンター前ヒットを打たれた。チリチルの前にランナーを出したのは痛かったがやむを得ない。
いよいよ天才との勝負の時間が来た。
チルチルが、ベースとは反対を向いたいつも通りの独特の構えで打席に立つ。左で投げるのは練習無しのぶっつけ本番になる。ムロランは緊張した。
チルチルはマウンドの投手がおかしな形のグローブをしているのを、ネクストバッターズボックスから見付けていた。さて、何の意味があるのだろう。
ムロランはマウンドで、背中で素早くグローブを右手に付け替えた。そして左足でマウンドを踏む。チルチルは絶対にアウトにならないから、ランナーのいる時のセットポジションではなくても、走者は走らない。しかしまさか左投げとはさすがのチルチルも一瞬驚いた。
ただそれ以上のことはなかった。驚いても、投げられたボールには十分対応できた。所詮は人間の投げるボールだった。
ボールが快音をの残して、レフトスタンドを越えていくと、もはや観客は、ムロランが両腕で140キロのボールを投げるという曲芸を見せたことすら、忘れてしまった。ムロランはこの一球だけでマウンドを下りた。
結局、交流戦でも、どのチームのどの投手も、チルチルを打ち取ることはできなかった。つまり日本の全てのプロ野球チームは、チルチルにコテンパンにやられたのだった。
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