第33話 コマエダ -ゆれる-

 コマエダ・ショウタは、社会人野球からプロにに入った。


 高校の時は岡山の甲子園に二度出場したことのある割と強い高校で、ショートとして活躍した。甲子園には行けなかったが、強肩でミスの少ない好選手として、幾つかの大学や社会人のチームがスカウトに来た。ただ打撃は余り得意ではなかったので、プロのスカウトはノーマークだった。


結局、広島の社会人チームに入る。こうして高校を卒業しても野球ができるのは、とても有難いことだとうれしかった。コマエダはショートとしてレギュラーを目指し、少しでも長く野球を続けたいと思った。


 しかし、肩の強さだけでは、レギュラーは取れなかった。打てない野手は先発では使ってくれない。コマエダは焦った。すると三年目に肩の強さを見込まれ、監督に投手への転向を進められる。確かに体はさほど大きくなかったが、ストレートはスピードがあり、後から覚えたスライダーも、曲がりは小さくても、タイミングを外すだけでも、アマチュアでは十分通用した。


 今度はプロのスカウトが、コマエダの速球に注目した。スライダーは投げる時のくせですぐ判るし。まだプロで通用するとは思えないが。変化球はこれから覚えていけばよい。


まだピッチャーを初めてから時間が浅いということで、逆に伸びしろを買われて、ドラフトで京都コンドルズに指名される。二十三歳でプロ入りを果たす。


まさか自分がプロになるとは。それもピッチャーで。それはまるで夢のようだった。


 しかし、多くの新人がそうであるように、一軍の壁は高かった。直球だけで通用するほどの、剛腕ではなかったし、変化球も、曲がりの悪いスライダーだけでは勝負にならない。他の変化球も身に付けるように言われたが、どの変化球もプロで勝負できるほどの変化や精度は得られなかった。指が長くないのも不利だった。


 三年間も二軍生活が続くと、さすがにもう自分には時間がないと、焦り始めた。きっとダメなのだろうというあきらめも出てきた。死ぬ気でやる闘争心がなければ、当然、逆転は難しくなる。


 どうもナックルボールという変化球があるらしい。メジャーリーグでは何人か投げる投手がいるようだ。自分に投げられるとは思わなかったが、コマエダもYouTubeで動画を見て、無回転で揺れる不思議な変化を、面白いと思った。


 キャッチボールの途中で、冗談でナックルボールを投げてみた。キャッチボールの相手が驚いた。

「なに今の?ボールがゆれたぜ」

 もう一球投げてみたら、今度は相手がミットの先に当てて取れなかった。

「おい、その球やめろよ」

 相手のキャッチャーは少し怒った。


 どの変化球もうまく投げられなかったのに、なぜかナックルボールだけはうまく投げられた。キャッチャーに頼んで、毎日何球か受けてもらった。


 ナックルボールはボールに回転を与えない投げ方で、スピードはないが、不規則な気流を生み、木の葉のように揺れながら落ちる。時には浮き上がったりもする。投げた本人さえどんな変化をするか想像ができない。そんなボールが打ちにくくないわけがない。


 そのうち、二軍の投手コーチが目を付けた。

「お前、今度試合でそれ投げてみろ。直球は投げなくていい。それだけで勝負してみろ」


 コマエダのナックルは想像以上に打たれなかった。日本のプロ野球にはほとんどいないが、確かにメジャーには、ナックルボーラーが昔からいる。豪速球投手に混じって木の葉のようなボールを投げる投手が、十勝以上を上げることもある。コマエダも、日本では珍しいナックルボーラーとして、マウンド立つことになった。


 自分でもどっちに曲ががるか判らないし、時には揺れないこともある。キャッチャーも取るのが難しい。こういうボールは、一点を争うときのセットアッパーよりも、何インニングかで試合を作ればいい先発に向いてる。投手コーチと監督は、一軍で試してみることを、決めた。


 入団四年目の夏、初めて一軍のマウンドに立った。投球練習での余りに遅いボールにスタンドはどよめいた。ただ、何人かの観客は気が付いた。

「ナックルボールじゃね?」

 大きく負けている試合の敗戦処理のような初登板だったが、見事に六人を続けてアウトに取り、チームにナックルボールを認めさせた。翌年には四人目の先発として、ローテ―ション入りした。


 ショートから速球派ピッチャー、速球派ピッチャーからナックルボーラー。コマエダ自身が、ナックルボールのように、野球の世界を揺れながら進んでいった。




 ドルフィンズとの最初の三連戦、コマエダは第三戦の先発として、登板が予定されていた。


 試合前、打撃コーチは、チルチルとママ・ティナを試合前に呼び寄せ、ビデオを見せて説明した。

「いいか、今日のピッチャーは、ナックルボールを投げる。ナックルボールというのは、指でボールをはじくように投げる。回転がかからない。ボールに回転がかからないと、なぜか不規則な変化をする。難しいことは判らんが、ボールは遅いけど、とにかく揺れるように見える」


 チルチルは話を聞いて、木の葉というよりも、不規則に急旋回しながら飛ぶコウモリを想像していた。それはどんな変化球だろう。すごくわくわくした。


 コマエダは自分には運があると思っている。もし普通にずっとショートをやっていたら、とてもプロ野球のグラウンドに立つことはできなかっただろう。そしてたまたまナックルボールという特殊な技術に出会ったから、一軍にいる。遊びで投げたボールから始まったことだ。


 きっとチルチルには、人間離れしたとてつもない才能があるのだろう。しかし、自分には運がある。ゆらゆら揺れて幸運をつかむ。運は時たま才能を凌駕する。今日はきっととてもラッキーな日に違いないと、不思議な自信が湧いてきた。


 一回裏、最初の打席。チルチルは一番、二番が簡単に打ち取られるのを見て、不思議でしょうがなかった。なんで、あんな遅い球が打てないのだろう。遅い球なら、どんな変化をしたって打てるに違いないと思った。


 バッターボックスに立つと、チルチルは果たして投手さえ変化が想像できないナックルボールを打てるのかと、注目が集まった。チルチルはいつものようにベースの反対側を向き、背中を見せる唯一無二のフォームで打席に入る。


 どうやら初めてのボールも、気にせずに思いきり振るらしい。大振りは打ち取りやすい。これはチャンスだとコマエダは思った。いつものようにノーワインドアップから、ナックルを投げる。ナックルを待たれているのは判っている。それでもみんなが打ち損じるのだ。


 コマエダから投げられたボールは、ストライクゾーンのど真ん中に向ってくるように見えた。それから、確かに不規則に左右に揺れて、一瞬浮き上がったかと思ったら、急激に落ちた。


 チルチルはいつものように球の軌道が明確に見え、いつものスイングをした。そしていつもの弾丸ライナーが、イー・スマスタジアムの、スタンド上にある看板を直撃した。


 そんな馬鹿な。コマエダは驚いた。

 間違いなくボールは大きく揺れた。捕手泣かせの決して悪くない変化だった。あの変化に対応できるのか。それとも運なのか。


 三回の裏、二度目の打席が回ってきた。コマエダのやることは同じだった。気合を入れることもない。いつも通りに無回転のボールを、ストライクゾーン目掛けて投げるだけだ。最後にボールがどこにたどり着くかは、コマエダ自身も想像ができない。ボールに聞いてくれとしか、言いようがない。


 コマエダは、ボールを曲げた三本の指で押し出した。完璧な無回転だった。ボールは途中外角に曲がると今度はまっすぐ真下に落ちた。キャッチャーさえ幻惑される軌道。


 しかし、チルチルにははっきりとその軌道が見えていた。不規則に変化すればそれに合わせて修正すればよい。バットの芯が、ホームランポイントを正確にとらえる。そして大歓声。


 コマエダは、呆然とした。あり得ない。偶然が二回続いたとしか思えない。今のボールも悪くなかった。ちゃんと揺れた。不規則の動きに、瞬間に対応できるのか?もしそうなら、もはや人間の対応力ではない。


 確かに、どこに変化するか判らないボールは、最後まで集中して見る必要はあった。しかし、あまりにもスピードが遅い。あのスピードなら、いくらでも対応できる。もし、時速百六十キロであの変化をしたら、さすがに難儀するだろう。しかし、あの遅いボールでは恐れるには値しない。飛ぶ蝶々を指で捕まえるより、簡単だと思った。


 第三打席、いつも通りに投げたつもりのナックルボールは、ほとんど変化しなかった。ただの遅いボールだった。気まぐれなボールは、まったくいうことを聞いてくれないこともある。最後の一球は、チルチルの興味を引くことすらできなかった。三連続ホームランで、結局、ナックルボールも完敗した。


 コマエダは偶然や運では、どうにもならない才能の壁があるのを知った。


 

 

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