第34話 サトシ4 -お別れ-
各チームとの対戦が一回りして、それぞれのチームは、自分たちや相手チームの状態を把握していく。各チームの新戦力の分析や要注意選手を、最近はAIまで駆使して分析する。今年はひとりの選手についてだけは、各球団は分析すらあきらめていた。
突然現れた完璧なホームランバッター。スイングのスピード、正確性、反応のスピード。どれをとっても、歴代の全てのスラッガーたちをはるかに凌駕していた。自転車とポルシェくらいの違いがある。各球団のスコアラーたちの結論は、球種、コースともに弱点は無し。つまりお手上げということだった。
チルチルは打率十割、ホームラン五十八本。このままのペースでいけば、全ての記録を大幅に書き換えるの間違いない。当然勝ちにこだわれば、どの投手もチルチルとの勝負を避けるだろう。
そこでスズノスケは手を打った。チルチルから最初にアウトを取った投手とチームにそれぞれ三億円ずつを、個人的に賞金として出すと、大きな小切手を作って発表した。確かに三億円がチラつけば、もしもに賭けて勝負してみたくなるし、監督や球団も、ギャンブルしたい気持ちを、なかなか止められなくなる。
この作戦は成功した。チルチルのホームラン一発が試合を決めてしまうような場面でなければ、投手は自分の可能性を過大評価し、自分がヒーローになる姿を想像した。そしてその期待は毎回裏切られた。まさかや奇跡はない。チルチルは完璧なバッターなのだ。
万一ホームランを打たれたところで、スズノスケは十分に元を取っている。入場者は増え、グッズもバカ売れである。そして、今までドルフィンズの試合に見向きもしなかったテレビ局が、何社も放映権を買いに来ている。もうすでにウハウハで、六億円を宣伝費に使ったのだとしても、損はない。何よりチルチルにホームランを打ち続けてもらうことが大事なのだ。
サトシは、チルチルの活躍を、テレビや新聞で見るたびに、誇らしい気持ちになっていた。「日本で最初に打たれたのは僕なんだ。僕が何百本も打たれて、今のチルチルができ上がったんだ」と、みんなに言いたかったが、それは果たして自慢できることなのかは、サトシ自身にもよく判らなかった。
自分も早く一軍に行かなければと思う。コントロールは自信がある。後はストレートに力がつけば、得意のスライダーも活きてくるはずだ。先発でもセットアッパーでも構わないので、早く一軍のマウンドに登り、チルチルと一緒に野球がしたいと思う。
新聞の記事のスクラップは続けていた。まだ開幕から二か月も経っていないというのに、バットを振ればホームランになるので、切り抜きの量はどんどん増えていった。チルチルはもはや雲の上の存在だ。ボディガードまで付いているらしい。もう自分が簡単に声を掛けられる相手ではないのは、よく判っている。自分の力で、天からぶら下がったロープを登っていくしかないのだ。
サトシは今でもチルチルと行った水族館の様子を思い出す。チルチルはまだ覚えていてくれるだろうか。あの日のことを思い出すと、なぜか楽しかったはずなのに、心はもやもやした。
チルチルの活躍のおかげで、ドルフィンズは十九勝五敗二引き分けというすさまじい勝率で、二位に大差をつけてぶっちぎりの首位だった。もう今年はユニバーサル・リーグはドルフィンズで決まりだと、四月の段階で、他のチームのファンはあきらめムードになった。
スズノスケも今年こそはついに念願ペナントに手が届くと確信した。しかし、安心するのは早い。リーグ戦だけでなく、クライマックスシリーズ、日本シリーズと勝って、日本一を手にしなければならない。そのためには油断はできない。更に戦力を充実させる必要がある。
監督、コーチや編成に補強のポイントを確認させた。どうしても、中継ぎの投手が足りないと、報告があった。接戦になった試合は終盤に逆転させるケースが多い。一年通して働ける中継ぎ投手が欲しい。オーシャン・リーグの東京ベアーズに、一昨年五十試合を投げたベテラン投手がいる。去年、メジャーリーグのバリバリの投手が一軍に入ってきて、敗戦処理に回ることが多くなり、多少ふてくされているようだが、気分転換すればまだまだ戦力として使える。
当然ベアーズもトレードという形で戦力を補充したいはずだ。特にベアーズは不調のキューバ人選手に変わる長距離バッターがほしいという情報が入っている。幸か不幸か、うちには長距離ヒッターの一塁手がだぶついている。特に四年目の左打ちのムトウは、飛距離はあるが打率が伴わないタイプで、まだ先発で一年使えるような安定性はない。しかし、ベアーズから見れば、あの飛距離は大化けするように見えている可能性がある。
早速、トレードの意向について、ベアーズと連絡を取るようにスカウト部長に指示した。ベアーズ側もトレードに興味はあるようだった。ただ、実績から見て、この数年一軍で投げ続けてきた投手と、今はまだ二軍登録の若手とのトレードではどうしても釣り合わない。
ベアーズは、先発やクローザーには有力な若手や外人が入団したが、長い回を投げられる中継ぎ投手が老化している。
「そう言えば、ドルフィンズの二軍に、コントロールのいい若手が一人いたよね。あの子なかなかいいじゃない?」
ベアーズが持ち掛けたのは、二対一のトレードだった。
仙台への遠征から帰った翌日、練習の後、翌日球団事務所に来るようにと二軍監督からサトシに通知があった。
一体、球団事務所への呼び出しって何だろう。もうしかして、一軍昇格ではないかと少し期待した。前の日の登板でも、二回を零点に抑えることができた。もしかして一軍にその連絡がいったのかもしれないと考えると、自然と顔がほころんだ。
「失礼します」
部屋に入ると、スカウト部長と、見たことのない背広組の社員が一人いた。監督やコーチが一人もいないので、これは一体何だろうと少し不安になった。
「おう、まあかけたまえ」
悪い予感がした。
そして予感は当たった。それはトレードの話だった。ベアーズがお前を欲しがっているというような話だった。
それはドルフィンズは自分を欲しがっていないという意味ではないか。部長はこれがどれだけいい話かをして、その後社員の若者が、条件などについて説明したが、内容は全く頭に入らなかった。どうやら、トレードされて野球を続けるか、この世界からおさらばするかのどちらかしかなさそうだった。
野球はきっとどこでもできる。お払い箱にしたいドルフィンズにいるよりも、自分を認めてくれるベアーズに行った方がチャンスは多い気はする。しかし...。
サトシの頭にチルチルの笑顔が浮かんだ。もう、チルチルと同じチームで頑張るという夢がかなえられることはないんだ。東京ベアーズと言えば、リーグも違う。対戦できるのも交流戦しかない。例え一軍に入れても、その数試合に登板できるかもわからない。東京は遠くはないが、それでももう彼女とかかわる機会はないだろう。
自分を欲しているチームがあるのは、いい話のはずだ。ところが、とても落胆してしまうのだった。しかし、サトシには、手がなかった。何も残せないまま野球をやめることは、サトシのこれまでの時間を、全て否定するのに等しい話だった。
サトシが契約書にサインをして、話が決まってからは、あっという間だった。すぐにでもベアーズの二軍の合宿所へ合流するようにと連絡があった。ドルフィンズでの二年ちょっとの思い出に浸る間もなく、引越しの準備などで大忙しとなった。
寮を出る日、寮長に挨拶をすると、「頑張れ、あそこは中堅投手が手薄だから、お前ならすぐ一軍行ける」と激励されてうれしかった。ようやく、新天地で頑張ろうという気になった。
寮の門を出たところで、大きな黒いリムジンが走ってきた。あの大きな車は見たことがあるなと思ったところ、目の前で停まり、中からチルチルとママ・ティナが出て来た。
サトシは驚いた。スーパースターのチルチルが、二軍の寮に何の用があるのだろうかと不思議に思った。すると二人はサトシの前に立った。
「あんた、東京のチームに行くんだって?びっくりしたよ。チルチルが練習に付き合ってくれたお礼を言いたいってさ。自信がついたのはあんたのおかげだって。島の女の子は義理堅いのさ」
ママ・ティナの言葉に、サトシは更に驚いた。「自信がついた」というのは考えてみたら、プロの選手としては恥ずかしい話だったが、それでもチルチルがわざわざ会いに来てくれるのは、とてもうれしかった。
チルチルは、サトシの目の前に歩み寄る。
「オニイチャン、アリガトウ。ガンバッテネ。スイゾッカン、タノシイヨ。マタ、ホームランウッテアゲル」
「うん、判った。頑張る。チルチルももっともっと打ってくれ」
チルチルは笑顔で手を振ると、すぐに大きなリムジンに乗り込み、あっという間に去って行った。まるで、反対に自分が見送りに来たみたいだと、サトシは思った。
チルチルは残酷な魔法使いだ。あれだけ魔法のようにケチョンケチョンに打ちのめしておいて、そして今度は忘れようと頑張っているところに、また急に現れて、声と笑顔だけが心の中に残ってしまう。
サトシは胸がしめつけられるよう切なさを感じて、ああ、この気持ちはそういうことなのかと、二十一歳まであと少しという日に、初めて知った。
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