第35話 スギダチ ー球界の盟主-

 五月の下旬に入り、ペナントレースも四十試合を越えた。ユニバーサル・リーグは、埼玉ドルフィンズが二位以下を大きく離して首位。オーシャン・リーグは一位から六位までが五ゲーム差の中にいるという大混戦となっていた。


 個人の成績で、突出していたのは勿論チルチルだった。いまだにアウトは0。敬遠のフォアボール以外は全部ホームランという、もはや神様と同じ存在になっていた。


 スズノスケのまいた三億円という餌に引き寄せられた投手たちも、チルチルに挑んでは、玉砕し続けた。ついには、チルチルの本塁打数も八十を超えた。もはやユニバーサル・リーグにチルチルを抑える投手はいない。チルチルの打撃は超高感度のセンサーの付いた精密機械と同じで、まったく失敗作品を生み出さない。


 当然、チームの勝ち星を考えれば敬遠が増えてくる。チルチルが敬遠で塁に出た時は、サギザワ監督はわざと大きくリードを取らせてアウトにした。八回や、九回で、もう打席が回って来なそうな時は、代走を出した。次のバッターがヒットを打った場合、足の速くないチルチルを追い抜いてしまう可能性もあるし、何より打球がチルチルに当たったり、クロスプレイでチルチルがケガをするのが怖かった。チルチルがケガをして出場できなかったりしたら、それこそオーナーは火山のように怒るに決まっている。


 当然、チルチルが塁に出てアウトになるなら、敬遠した方が特に決まっている。そこで、スズノスケは更にかけ金を釣り上げた。最初にアウトを取った投手とチームに十億ずつを渡すと公約した。十億への挑戦の野心を止めるのは、難しかった。それにチルチルの「わたしの全部あげちゃう」の広告が、まだ頭に残っていた。


 サギザワはすでにチルチルのおかげで、日本のテレビだけでなく、アメリカのネット配信会社とも契約に成功していた。二十億を積んででも、チルチルに打たせることが金になる。




 ペナントレースは、毎年恒例のユニバーサル・リーグと、オーシャン・リーグの交流戦に入った。ユニバーサル・リーグの監督たちはしばらくはチルチルと対戦せずに済むと思うと、少しほっとしていた。


 最初の三連戦の相手は、サトシがトレードされた名門東京ベアーズだった。


 東京ベアーズは、帝都新聞がオーナーで、グループに帝都ラジオ、帝都テレビ、帝都出版、帝都映画、帝都広告というメディアを抱えており、かつては野球ファンの80%はベアーズファンと呼ばれていた。特にドラフト制度の無い時代は、人気と財力で実力のある学生を全てかっさらい、十二年連続日本一という記録を打ち立てる。


 最近は、資金力のある球団が各地に増えて、実力が拮抗してきたが、やはりスター選手を集めるベアーズは、間違いなく毎年優勝争いには絡んでくる強豪チームであるのは、間違いない。


 各チームのスターを引き抜き集めるのが得意なベアーズの中で、エースのスギダチは生え抜きの選手だった。高校時代はドラフトにかからなかったが、速球を見込まれて大学にはセレクションで入学。


 監督の勧めで、悪いコントロールを直すために、アンダースローに転向すると、東京六大学でリーグ戦通算三十三勝を挙げた。学生ナンバーワン投手としてドラフトの目玉になる。東京ベアーズ以外は行かないとドラフト前に宣言したが、結局に三球団に指名される。ここで、野球の神様はベアーズに微笑んだ。


 スギダチは一年目から十六勝し、最多勝と新人王を獲得。アンダースローとは思えないスピード。横に曲がるスライダーと浮き上がるようなカーブ。そして必殺のシンカー。彼こそプロ野球史上最高のアンダースロー。


 WBCやオリンピックといった国際試合でも、福岡ジャガーズのナツカワと共に、二枚看板として活躍する。アンダースローをほとんど見たことのないメジャーリーガーやキューバの強打者たちを、きりきり舞いさせた。


 スギダチはエースの所作ふるまいにも気を付けた。ベアーズのエースは献身的で、上品でなければならない。球界の盟主ベアーズのエースは、みんなから尊敬されなければならない。スギダチはそんな凛々しい自分が大好きだった。


 スギダチはローテーションでドルフィンズとの三連戦の第一戦の先発だった。チルチルには全打席を敬遠するつもりでいた。自分はベアーズのエースで、自分が投げる日は絶対に勝たなければいけない。自分の好奇心や野心で、チームにリスクを負わすことは出来ない。


 しかし、監督の指示は勝負だった。


「あの怪物さんも、アンダースローのボールは見たことない。お前だけにしかないアドバンテージがある。しかもお前は世界一のアンダースローだ」


 スギダチは実はうれしかった。十億円は別にしても、日本、いや世界で初めての怪物退治をした男になりたいに決まっている。そして栄誉はベアーズに捧げられなければならない。チルチルの記録にピリオドを打つのは、王者東京ベアーズとそのエースだ。


 新聞やテレビは、スギダチこそは最後の砦、最後の希望と、対戦を盛り上げた。彼はやるかもしれない。彼が無理なら、誰もが無理なのだ。


 ベアーズの本拠地である帝都ドームに乗り込んだチルチルは、車を降りた時からもうきょろきょろしていた。バッティング練習の前も落ち着かない様子だった。


「どうしたんだい」

 ママ・ティナはそわそわするチルチルに尋ねた。

「サトシはいないの?」

「ああ、彼はまだ二軍だから、球場には来てないわね」

 チルチルは少し寂しそうな顔をした。


 その頃、サトシは昼の練習を終え、多くの二軍選手たちと並んで、寮のテレビを見ていた。

「スギダチさんなら抑えるんじゃないか?」

「あの浮き上がるストレートは、さすがに初めてでは打てへんで」


 若い選手達は、ベアーズファンと同じように、スギダチ先輩の快挙を期待していた。ただ一人サトシだけは、チルチルは打つに決まってると、信じていた。


 一回表、ベアーズは何と、左のセットアッパーのロペスを先発に持ってきた。チルチルとの対戦まで、できるだけスギダチのボールを見せない作戦だった。ロペスは一、二番を三振、セカンドフライに打ち取る。チルチルの打席、ベアーズベンチはスギダチをマウンドに送る。大歓声の中、スギダチはマウンドに登る。


 自分は日本プロ野球のプライドを背負って、マウンドに立つのだ。大歓声は一億二千万の後押しだ。そう考えると、マウンドの上で涙が流れそうになった。いや、泣くのはまだ早いと自分に言い聞かせる。


 スギダチの投球練習が始まると、チルチルは初めて見るアンダースローを面白い投げ方だと思った。是非打ってみたいとワクワクした。


 真っ向勝負でストライクでアウトを取る。それがエースの義務だ。スギダチは内角高めの胸元へのストレートで勝負するのを選んだ。このボールで打ち取る。


 流れるような美しいアンダースローのフォームから、狙い通りのコースにやや内角にスライドしていく、回転の聞いたストレートが投げられた。スギダチも完璧なボールを投げた感触があった。


「キーン」

 ベアーズファンの夢を砕く音がして、レフトスタンドを越えるいつもの打球が放たれた。球場は静まり返った。それは日本の希望の光が消えた景色だった。


 膝より下から投げられたボールは、確かに浮き上がるような軌道に見える。ただそれは錯覚で、引力に逆らえるボールなど存在しない。チルチルは指を離れた瞬間から、完璧に軌道を把握し、打った。


 完璧なストレートが通じなかった。最初は呆然としたが、次の打者をアウトして、ベンチへ歩いているうちに血がたぎってきた。次は絶対に抑えてやる。それは僕の使命だ。


「奴をアウトにするまで投げさせてください」

 初めて見る熱くなったエースの姿に監督も少し驚いた。聖人君主が初めて闘争心を表に出した、と思った。


 チルチルのホームラン以外は、一人のランナーも出さず、完璧に抑えた。そしてチルチルの二回目の打席。


 もはや、ストライクゾーンでアウトを取るというような理想を語っている場合ではない。ここはボールストライクゾーンからインコース低めに落ちていく最高の決め球、シンカーで勝負する。アンダースロー独特のシンカーの軌道は見たことがないはずだ。


 スギダチはワンバウンドしてもいいくらいの気持ちで投げた。渦巻くような回転が見えた。しかも回転量は少ない、これは失速し落ちるボールだと理解した。ストライクゾーンより低いコースを通過するのは間違いない。低くても問題ない。ベースより手前ですくい上げればよい。


 快音の後、普段より高い打球がドームの天井目掛けて飛ぶ。圧倒的な飛距離を見せられた。


 ダイヤモンドを一周するチルチルや近寄って来たキャッチャーも相手にせずに、スギダチはマウンドを見つめて、「まだまだ、まだまだ」とぶつぶつ言い続けた。


 三打席目。まだ武器はある。ゆっくりと浮き上がるカーブ。そのスピードと球筋に、バッターはタイミングを狂わされる。腰砕けのスイングで、打球は外野にすら飛ばない。初対戦でタイミングを合わせるのは不可能だと、スギダチは確信していた。


 チルチルは見たことのないボールが続き、楽しかった。もっと違うボールを見たいと思った。いろんな球種に対応するのは、刺激的ではあったが、難しいというレベルではなかった。


 低い位置から投げられた遅いカーブ。ボールにやや上向きの回転がかかっているのが見えた。それだけで大体の軌道は予想がついた。あとはいつものスイングをするだけ。


 エースが三球続けて、完璧なホームランを打たれた。それは、王者東京ベアーズがチルチル一人に敗北した日だった。


 スギダチは、ベアーズで築いてきた全てが崩壊した気がした。あの新人に壊されたのだ。


「くそ、チXX野郎が」

 静かな球場に、普段は冷静で紳士なエースの汚い罵声が響き、観客はドン引きした。しかもスギダチは大きな間違いをおかしていた。チルチルは女性だった。


「お前、打ち取るまで逃がさないからな」 

 チルチルを指差して吠えた。


「あの人何て言ったの?」

 チルチルは、ベンチに戻るとママ・ティナに聞いた。

「あんたを逃がさないってさ」

「こわーい」

 チルチルは二度とスギダチと対戦したくないと思った。

 

 ベアーズの寮では、三本目のホームランに「ああ」という落胆の声が上がり、みんな自分の部屋に戻っていった。サトシは黙っていたが、チルチルを誇らしく思った。

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