第32話 エオカ -サンダル-
エオカがマンションに帰ると、いつものサンダルが見えた。鍵を渡してあるから、勝手に入って来る。今日はあいつがいてもいい日だとエオカは思う。あいつは気が利くから、俺に寄って来る遊びの女たちがいる時は、入ってこない。部屋に入ると珍しく誇らしい顔をしている。いつものすがるような、それでいて恨むような悲しい目ではない。
エオカは、高校の時から神戸では有名な投手だった。なまけぐせのある練習態度や、一年の時から喫煙で問題を起こすなど、素行に問題はあったが、潜在能力はその世代でピカ一と言われた。
結局ドラフトでは、広島シャークの一球団しか一位指名しなかった。それは彼の潜在能力から見れば、不釣り合いな評価だったが、彼の普段の態度を問題視して、避けた球団が多かったのは間違いなかった。
エオカは、入団三年目からキレのあるストレートと大きなカーブ、そしてストレートと見分けがつかないフォークを武器に、ローテーションに入る。とにかく乗った時のエオカは手が付けられない。五年目には十連続三振や、二試合連続ノーヒットノーランといった記録を達成する。
しかし、気分が乗らないときは、これまでの好投が嘘のように抜けたボールを続けたり、突然やる気のないような態度で試合をぶち壊したりする。しかも、一年を通して活躍をしたことはない。つまり、それは、エオカの不摂生に起因していた。まじめに練習さえしていれば、日本を代表するエースになっていたはずだ。
彼こそは天才だった。努力を放棄し、才能だけで勝負できた。しかし、一年を通して活躍できない選手は、計算しづらい。しかも、チーム内に悪い空気を充満させかねない。結局、広島シャークの監督は、エオカが手にあまり、放出を決める。
そこで、エオカに目を付けたのが、大阪エレファンツの闘将フジノ監督だった。エオカは一対二のトレードで、大阪エレファンツにトレードされることになった。エオカは予想通り不貞腐れた。特にエレファンツの戦うユニバーサル・リーグはDH制のため、打つことも好きなエオカとしては、気に入らなかった。
フジノ監督は、エオカは一回なら切れることなく全力で爆発できると読んでいた。入団したエオカをクローザーにコンバートさせた。先発と違って、定期的に休みのないクローザーへの指名に、エオカは更に不貞腐れたが、フジノの鉄拳と番長気質は、却ってエオカには良かったのかもしれない。エオカはクローザーとして、頭角を現し、二年連続最多セーブを記録し、リーグ優勝にも貢献する。
ただ、リーグ一のクローザーとなっても、遊び癖だけは収まらなかった。夜になればキャパ嬢や、モデルといった蝶を引き連れて歩く。怪しげな付き合いの噂は途切れることなく、別な意味でも話題を提供し続けた。
たまたま、球団関係者との会食に来たホテルのレストランで、コンシェルジュとして働く女性に目が行き、どこかで見た顔だと思った。相手もエオカの顔を見て驚いたようだった。
「あっ、エオカ君。私、わかります?シラサキです」
その女性は、高校の同級生シラサキ・ナツミだった。ナツミは高校の時は、どちらかと言えば大人しいタイプで、確かバトミントン部にいて、いい方にも悪い方にも目立つタイプではなく、印象に残るタイプではなかった。
大人になって、ナツミは随分綺麗になった気がして、エオカは驚いた。何より、エオカに近寄って来る女たちとは違い、日々の生活の積み重ねで、しっかりした何かを身に付けているような気がした。
「ねえ、シラサキさん。今度、球場見に来ない?チケット送るから。ライン交換しよ」
ナツミも、大阪のスターに声を掛けられて、うれしくないわけはなかった。
まさか、高校の時はカースト最上段のエオカ君と、下の方にいる自分が、段々と深い中になっていくとは、夢にも思わなかった。エオカのマンションに通うようになると、自分は一体何をしているんだろうと思った。でも、気まぐれな狩人のようなエオカ君が、突然甘えたりするのはとてもかわいかった。それはテレビで日本中が見る、あまのじゃくな勝負師のエオカ君ではない。
ナツミとこっそり付き合い始めてからも、エオカは好きさえあれば羽根を伸ばした。夜には華やかさと、刺激があふれていた。しかし、本当にこれは楽しいのだろうか。
時には、そんな蝶をマンションにまで連れてくることもあった。きっとナツミはドアの外まで来て、中の様子を感づいて、帰って行ったのだろう。
これは甘えなのだろうか。ナツミに殺されてもいいな、と思うことがある。でもナツミはそんなことはしてくれない。
ナツミはエオカが甘えているのが判った。そして、自分もずっと甘えさせている。もたれ合う二本のススキのようなものかと思う。
エオカは、若い時よりはスピードは落ちたが、天才的な技術はそれを補った。天才は人の半分の努力で、二倍の成果を出す。三振の山はきずけないが、それなりに、うまく打ち取っていく。ナツミはそんなんでいいのかしらと思う。
高校の三年間のことはもううまく思い出せないが、エオカと一緒にいた七年間よりも、随分と長い時間を、あの教室でおとなしく生きていたような気がする。
エオカが、朝の五時前にマンションに帰ると、中には光が点いていて、ナツミが待っていた。この時間まで中で待っていることは少なかったので、珍しいと思った。中では、ナツミが荷造りをしていた。ナツミの物はほぼ全部片付けられているのは、すぐ判った。
「なんや、旅行でも行くんか」
エオカは、冗談を言ったが、ナツミは覚悟しているのはもう判っていた。
「さいならや。その方がええわ。きっと私らどうにもならんし」
スーツケースを、玄関まで運ぶと、エオカはナツミの肩をつかんだ。
「おい、ちょっと待てや」
初めて止められた。多分、最初で最後だろう。
「そんな簡単に決めるもんちゃうやろ」
そう、簡単に決めてはいない。
「よう、わからんけどさ。もう一回チャンスくれや」
チャンスは何千回もあったはずだ。
「頼むはほんま」
ナツミは振り返って、暫く考えた。
「そやなあ。あの、全部ホームラン打つ女の子いるやろ?あの子アウトにしたら戻ったる。チャンスは一回や。一本勝負であんたが勝ったら考え直す」
それだけ言うと、ナツミは出て行った。
「あんたは甘ちゃんやから、きっと勝たれへん」
ドルフィンズとの二連戦の前、エレファンツの選手の間で、エオカさんが変わったと噂になっていた。夜も早く帰る。どうも朝は走ったりしてるらしい。なんかあったんやろか。
大阪でドルフィンズを迎え撃つ。あんな小娘に負けるわけにはいかない。第一戦ニシオの馬鹿がビビりくさって、挙句の果てに降参して、けちょんけちょんにやられた。逃げるんなら最初からケンカすんな。
エオカは、先発の六大学出身で三年目の先発投手に言った。
「いいか、あのガキには、全部バットの届かんところに投げとけ。欲こいて中途半端なことすんな。他は絶対押さえろ」
先輩のエオカに脅され、先発投手は慌ててコーチに相談に行った。
「エオカさんに全部届かないところ投げろって言われたんですけど」
「いつものことだ。相手にすんな。しっかり勝負せい」
と、言いながらも、さすがに同点の拮抗した試合で、チルチルの前にランナーが出れば敬遠せざるをえない。三打席連続敬遠になると、さすがにホームと言えども、大きなヤジが飛ぶ。
「こら、お前キンタマついとんか」
いずれにしろ、エレファンツの選手はタマのことでやじられる運命にはあった。
エオカはしめしめと思った。一点取れば、俺がしめる。エオカの願いが通じたのか、八回の裏、フォアボールの後のエラーに続くヒットから一点を取り勝ち越す。まるで自分の思い描いたシナリオのように試合が動く。今日は俺の日だと思う。
九回、抑えの切り札エオカがマウンドに上がると、大きな声援が球場に響く。ファンは期待する。さすがに今日は勝つやろ。勝利の方程式が発動した。
打順は八番からだった。
「これは、ちょっと細工が必要やな」
八番、九番の代わりに出た代打を連続で三振に取る。怖いくらいに球が走っている。全盛期のようだとベンチの監督、コーチは思う。これは安心だ。今日は勝った。
ところが、エオカは一番、二番に続けて四球を出す。しかも別人のように腑抜けたボールだった。次はチルチルだ。慌ててコーチがマウンドに行こうとすると、グローブを振って追い返す。
「あいつわざとまわしたんちゃうか」
昨日の脳震盪から復帰した監督のフジオが、舌打ちをした。
思わぬ展開の中、ブーイングと怒声と歓声が渦巻くグラウンドで、チルチルが打席に向かう。
ナツミは、量販店の家電売り場のテレビに映るエオカを見ていた。画面には高校の時に見た虎のような目でチルチルを見るエオカがいた。
「ええ顔しとるよ。本気のエオカ君が帰ってきた」
エオカは、初球、低めに外れるフォークを投げた。チルチルがすくい上げると、打球はバックスクリーンのすぐ左まで飛んだ。サヨナラ逆転スリーランだった。
「なんや、結局逃げて打たれるんか。そういうとこやで」
ナツミは、テレビの前を去った。エオカは、マウンドで涙を拭いた。エオカが打たれて泣いている。チームのみんなが驚いた。
夜、マンションに、ナツミはいなかった。玄関にサンダルがなかった。本当にいなくなったんだ。静かな部屋。これからはナツミの無い人生を過ごすのだ。エオカは一晩に二回涙をこぼした。
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