第30話 クワエ -針の穴-

 クワエ・ヤスミは、宮崎の高校出身で、投手として甲子園に二度出場し、三年の夏には準決勝まで駒を進めた。


コントロールが抜群にいい好投手ではあったが、スピードやフィジカルは、プロで活躍するには物足りないという評価で、高校ではドラフトにかかることなく、社会人野球に行く。そこで、球種を増やし、直球のスピードを上げ、更に得意のコントロールに更に磨きをかけた。


 ストライクゾーンのコースぎりぎりを、ボール一個単位で入れ出しする。それがストレートでも、カーブでも、フォークボールでも、キャッチャーのミットを動かさせることなく、狙った点に収める。


 三振を量産することはなかったが、圧倒的なコントロールに、敵は凡打を重ねる。ついに社会人二年目には、チームのエースとして全国大会で優勝する。この安定性は即戦力として使えるだろうと、プロのスカウトも注目をはじめた。


社会人の三年目に、横浜メッツは、彼をドラフト会議で二位指名する。


 ストライクゾーンの四隅をかすめるかどうかの、ぎりぎりのボールを投げ続ければ、たとえプロでも連打をくらうことはないと、クワエは確信していた。


反対に、スピードを上げるために、フォームを崩すことはしたくなかった。コーチはストレートの威力を増すために、フォームと肉体の改造を命じたが、クワエは頑なに拒んだ。


自分より十キロ速い投手は、プロには沢山いる。それよりもピンポイントでボールをコントロールする感覚を、更に磨いた方がいい。


 勿論外角低めギリギリに決まってもヒットを打たれることはある。百パーセントなどは野球で存在しないが、それでも圧倒的なコントロールは、アウトの確率を大きく上げる。安定した成績をもたらす武器となる。


 一年目の秋に二軍の監督より、クワエはなかなか使えると、一軍に連絡があった。威力のあるボールがあるわけではないが、一年を通して与えられた試合は、ずっと乱れない。


 一軍に上がってもクワエの武器は通用する。とにかく安定した成績を残す。フォアボールが無いので、大量失点にならない。打てそうで打てない。相手をいらいらさせる。計算できるピッチャー、それがクワエだった。そんな精密機械のクワエが、ついにチルチルと対戦することになる。


 クワエは、チルチルの打席のビデオを何度も見た。速かろうが、鋭く変化しようが、バットの芯が届く範囲であれば、100%の確率でホームランになる。打たれているのはWBCやオリンピックにも出るような日本を代表するエースたちだ。自分の投げるボールは彼らには及ばないが、ぎりぎりのところへのボールの入れ出しなら、自分の方がうまい。


 彼女の場合、ストライクゾーンという概念は意味がない。要はバットの芯が届くかどうかというところが重要だ。つまりは届くかどうかの限界点で、芯を外せば、運が良ければバットを折ることができるし、さすがに先っぽに当たったボールが、フェンスの向こうまで飛ぶとは思えない。つまり自分がやることは、ぎりぎりの線を見極め、バットの芯が届かないボールに手を出させること。


 クワエは、何十回となく、チルチルがホームランを打つシーンの動画を見続けた。特に外角のボールに、どこまでチルチルのバットが届くのかを研究した。ホームランが出るギリギリのラインの確認を続けた。その見えない境界線のわずか外側に、チルチルを打ち取るチャンスがある。


 チルチルのおかげで開幕からの連勝を続けるドルフィンズ。対戦する横浜メッツには前年度ホームラン王のヤマカネがいる。ホームラン王と、南の国から来た球界のかわいいインベーダーと、どちらが凄いかの対決も注目されていた。


チルチルの陰に隠れていはいたが、ヤマカネも二試合連続でホームランを打っていた。ヤマカネも、突然現れた女の子に負けるわけにはいかないと、気合が入っていた。


 一回表、ヤマカネはいきなりツーランホームランを放つ。一回裏、精密機械のクワエがマウンドに上がる。ツーアウトの後、大歓声の中、チルチルが打席に入る。


 クワエは作戦を頭の中で繰り返した。まずは遠くから、そして少しずつチルチルのバットが炸裂する境界点に近付けていく。最後に、わずかに芯を外したポイントで打ったボールは、フェンスの手前で外野手に捕られるはずだ。


 クワエはいい感じで緊張し、集中してマウンドに立っている。それはオリンピックのアーチェリーや射撃選手の、メダルのかかった最後の一射と同じ精神状態だった。失敗は即ホームランという敗北になる。監督からはフォアボールもやむを得ずという指示は受けてはいたが、クワエは絶対に打ち取る気でいた。


 初球、クワエはストレートを、バットの届かない外角高めに投げた。チルチルは回転を止め、スイングは途中で止まった。観客はクワエがチルチルとの勝負を避けたと思い、球場内に大きなブーイングが響いた。クワエは気にしなかった。ここからが本当の匠の技の見せどころだ。


 二球目、チルチルの射程距離から外に逃げるスライダーを投げたが、チルチルは一球目と同じく、あっさりと途中でスイングを止め、見逃した。またしても球場はブーイングの嵐。


 観客から見るとストライクゾーンから激しく外れているが、チルチルのバットの届くキルゾーンからは、ボール二個も外れていない。さすがにクワエは困った。投げる前にボールの軌道が判っているかのような見逃がし方である。もっとリスクを冒して、チルチルのバットが届く中へと投げるしかない。


 クワエは腹をくくって、集中した。本当のぎりぎりを狙い投げる。三球目外角低めのストレート、明らかにストライクゾーンからは外れている。しかし、そのコースはクワエのイメージを完全に再現していた。ホームランを生み出すバットの芯はボール一個分届かないはずだ。


 次の瞬間バットが伸びた気がした。届かないはずのバットが届き、あっという間に左中間のスタンドの上にボールは消えた。


「ありえない」

 クワエは呆然とした。いつものようにちょこちょことダイアモンドを走るチルチルを見て、お前はどういうマジックを使ったんだと、驚いた。


 クワエは大きなスクリーンに映し出されたホームランのシーンを見た。チルチルはインパクトの瞬間、両手でグリップエンドをつかんでいた。チルチルはボールが投げられてからの一瞬で、グリップの調整までしていた。クワエは驚きで少し震えた。


 三回裏、クワエは一番打者にヒットを打たれてしまい、ツーアウト、ランナー一塁でチルチルに打席が回ってきた。さっきのバッティングを見て、クワエは、絶対投げてはいけないゾーンを、5センチ広げなければいけなかった。勿論見送れば全部ボールになるコースが狙いどころになるが、チルチルとの対戦にはストライクゾーンという概念は、捨てざるをえない。


 クワエは集中力を最高レベルに上げる。一球目、前の打席に打たれたボールより、10センチ外側目掛けて投げた。ボールは完璧にコントロールされた。しかし、チルチルは途中でスイングを止め、簡単に見送った。


 次の二球目も、高めに遠く外れるスライダーを投げたが、このボールも完全に見切られた。


 三球目はリスクを冒して、二球目より2センチ中に目掛けて投げた。果たしてバットの芯に当たるかどうか、クワエ自身でも想像が付かなかった。クワエは精密機械と化し、完璧に狙い通りのコースにコントロールした。しかし、チルチルの回転は途中で止まり、見逃した。


 スリーボールになり、球場内のクワエに対するブーイングがドームを振るわせた。クワエは打つ手がなくなっていた。三球目をチルチルが見逃したのは、100%の自信がなかったからだ。チルチルは絶対にホームランが打てると確信したボール以外はスイングしないのだ。全てのボールを、チルチルの目が見切っている。しかも見切られる球は全部ボールなので、彼女をアウトにすることは絶対にできない。


 四球目、境界線ギリギリを目指したボールは、チルチルには十分に射程圏内で、またバットを長く持ちかえ、打ち抜いた。バットを長く持った分だけ、遠心力が加わり、いつもより早い打球が外野手の遥か頭上を飛んでいく。クワエはレフトスタンドの上の屋根を見上げながら絶望した。つまり、ホームランを打たれるか、逃げるか以外の結果が無い。


 結局、この試合で、横浜メッツの四番ヤマカネも、二本のホームランを打ち、ホームランキングの意地を見せたが、チルチルはそれより多い三本のホームランを打った。メッツの投手陣を完全に叩き潰した。バットを振ればホームランになる女神様には、日本のホームラン王もかなわなかった。


 チルチルは第四打席はワンアウト二塁で、地鳴りのするようなブーイングの中で敬遠され、代走を送られ交代した。


 チルチルのバットで、ドルフィンズは開幕十連勝を記録し、首位独走態勢に入った。監督のサギザワは、これは本当に優勝してしまうかもしれないと、喜んだ。さすがに優勝すれば、すぐに首ということもなかろうと、シーズン終了後のことまで考え、顔がほころんだ。

 

 


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