第29話 ワカホシ -七色の変化球-

 アラザキがマウンドを降りた後、最終打席、ツーアウト二塁の場面で、ハンターズはリリーフ投手に申告敬遠を命じた。ホームゲームにもかかわらず、場内は物凄いブーイングが沸き上がり、多くのモノがグラウンドに投げ込まれた。


 チルチルにとって、初めてホームラン以外での出塁となった。すぐに代走が出された。ベンチに戻って、ママ・ティナに「こんなんでも給料は減らされないのか?」と聞いたが、「ああ、減ることはないねえ」と答えられ、ほっとした。結局、チルチルの三本のホームランもあり、ドルフィンズは開幕三連勝を上げた。


 チルチルの売り出しだけでなく、ドルフィンズは三連勝で開幕ダッシュにも成功した。やはり、ドルフィンズは俺の経営手腕と心眼にかかっているのだ。多少監督、コーチが能無しでも、邪魔さえしなかえれば、優勝は間違いない。スズノスケは、大満足だった。


 結局、ハンターズとの三連戦で、チルチルは七本のホームランを打つ。ぶっちぎりでリーグのホームラン・ランキングの一位になる。このペースで打ち続ければ、全てのホームランに関する記録を塗り替えるのは、時間の問題に思われた。




 次の三連戦は、ホームの埼玉に戻り、横浜メッツを迎え撃つ。チルチルはママ・ティナと住むマンションに帰ってきてほっとした。どうやら、ホームランのせいで、みんなに追いかけられる有名人になったらしく、気軽に外へは出られないようだった。もうサトシと水族館に行ったりするのも難しいらしく、それはちょっと悲しかった。


 マンションに出迎えに来る車が、更に大きくなった。助手席にはボディガードも乗っている。最初は逆に誘拐されたのかと思って驚いた。自分を守ってくれるためだと知ったが、ということは自分は誰かに狙われているのだろうかと、逆に少し怖くなった。


 球場は、火曜日にもかかわらず、早い時間に席は埋まっていった。チルチルを打撃練習から見たい人がたくさん集まった。チルチルが出てくると拍手が起こり、打球がスタンドを越えるごとに「おお」というどよめきが起こる。


 相手チームの先発ワカホシは、そのスイングをじっと見ていた。


 ワカホシは、大学野球で頭角を現し、ドラフト2位で横浜メッツに入団した。豪速球はなかったが、フォーク、スライダー、シンカーを投げ分け、相手を打ち取るというタイプに投手だった。何とか二三年で球威を増し、一軍に上がってくれれば、という程度の期待のされ方だった。


 ワカホシの最大の長所は、指先の器用さだった。チームの投手や、相手チームの投手が投げる変化球も、見ただけですぐにマスターした。使える球種は、どんどん増えていく。カーブ、スライダー、ツーシーム、フォーク、カットボール、ナックルカーブ、シンカー、チェンジアップ。その全てが決め球にできるレベルの切れ味で、しかもちゃんとコースをコントロールできた。


 カーブを狙うとシンカーが来る。ツーシームを狙うとカットボールが来る。スライダーも、横に曲がるのと縦に曲がるのがある。そしてたまに来る見せ球のストレート。バッターからすると、球種で的を絞るのは、宝くじを買うようなものだった。ワカホシの指先が繰り出す魔術に、幻惑され、バッターは手玉に取られていく。


 ワカホシも、チルチルとの対戦は楽しみだった。人間は経験の動物である。学習する能力があるが、動物のような反射神経や瞬発力を持ち合わせていない。経験のない出来事への対応力は低い。見たことのない変化球に、簡単に反応できるはずがなかろう。


 一回の第一打席、チルチルを迎える。


 ワカホシは考える。あの体で、場外に打つようなスイングスピードを得るためには、普通のバッターよりも半周多いあの回転が必要なのだろう。加速すればするほどスイングを修正するのは、大変だ。逆に勝機は高くなる。スコアラーの資料では、チルチルはストレート、スライダー、カーブくらいしか見たことがないようだ。自分の変化球全てを次から次へと投げてやる、


 一球目、ワカホシはフォークボールを選んだ。普通はツーストライクと追い込んでから、低めに外して三振を取りに行くフォークボールを、一球目から投げる。ストライクゾーンから外れていくボールで、見送られても、それはそれで構わないつもりで投げた。


 チルチルには、人差し指と中指を広げて投げるのが見えた。つまりは、指先の力が伝わらず、回転が少ないボールになると瞬時にチルチルの目が見抜いた。回転が少ないボールは、普通のストレートよりも、引力に従って落下する量が多いはずだ。


 チルチルの目はずっとボールを追った。確かに普通の逆回転がかかったボールと違い、途中で急激に落下するのが見えた。チルチルの目は完全に獲物の軌道を捕らえていた。後は膝よりも低いところを通るボールに合わせるだけだった。初めて見る種類の変化球を打つのは楽しかった。


 ワカホシは、地面ぎりぎりのボールをチルチルがすくい上げるスイングで捉えるのを見た。聞いたことのない大きな音がして、振り返った時には、打球はもう左中間のスタンドの上に消えていた。


「うそおおお」

 ワカホシには信じられなかった。あの低めにはずれるフォークは、ヒットどころか、外野に飛ばされた記憶すらなかった。


 四回裏ドルフィンズの攻撃、二番ノーアウトで、絶対塁に出してはいけない二番バッターにフォアボールを与えてしまう。ここで敬遠しては魔物退治のヒントすらつかめなくなる。メッツの監督はワカホシに勝負を指示した。本当のことを言えば、チルチルの実力を確認したかった。まだ開幕したばかりなので、この一敗を犠牲にしてでも、チルチルが本物のモンスターなのか、見極めたいという気持ちもあった。


 右バッターボックスに入るチルチル。次のボールはカットボールに決めた。ストレートのように見えて、ベースの近くでわずかに外側に切れるボール。一瞬消えると言われているカットボール。今度こそ初めて見るボールにチルチルはバットの芯を外すはずだ。


 先頭打者のチルチルが打席に入ると、もう球場中が一点追加が確定したような雰囲気になる。レフトスタンドの上ではこっちに打ってくれと観客が立ち上がっている。そんなに簡単に行くものか。俺のカットボールは、初めて見るお前の視界から消える。


 ワカホシが投げられたボールは、ストレートに近いスピードだが、外側に向って回転がかかっている。これはきっと、外角に向って逃げるはずだ。チルチルは瞬時に軌道を把握した。チルチルの体に染みついたスイングは、絶対にミスをしない。狙い通りに打球は手を振る観客たちのその上に飛ぶ。打たれた瞬間に、完璧なホームランなのはワカホシにも判った。


 チルチルの目にはワカホシの指を離れた段階から、バットがぶつかるまで、ボールの縫い目の動きまで見えた。決してボールが消えることはなかった。

「うううん」

 ワカホシも、チルチルのポテンシャルは想像を遥かに超えているのが判った。段々残された武器は少なっていく。


 第三打席、ワカホシが選んだのはチェンジアップだった。ボールの変化はチルチルに見切られている。今度は同じフォームから投げられるスピード差のあるボールで勝負する。ブレーキがかかり少しだけインコースに曲がりながら落ちるボールに、バッターはタイミングが合わず、バットが回った後にボールがミットに届く間抜けな姿をさらす。ボールの回転数による変化だけではない。スピードの変化も武器になる。


 中指と薬指の間を抜けたボールは、ワカホシの意図した通り、わずかなシュート回転を伴い、ゆるいスピ―ドでベルトの高さから膝下に向って落ちていく。


 チルチルは、投げられた瞬間に、ボールに指の力がしっかり伝わっていないのを見た。スピードのないボールが来るのは一目瞭然だった。エンジンをフルスロットルにするスタート時間を遅らせるだけで、スイングのスピードを遅らせるわけではない。バットがボールに衝突する瞬間、スイングのスピードは最速になっている。それはたとえゆっくりと落ちる球が来ても、チルチルの動きは乱れない。


 三本目のホームランを打たれ、ワカホシは、全ての仕掛けがことごとく通じないのを思い知らされた。


 もう一回だけ。もはや試合を捨てたメッツの監督は、ワカホシのわがままを聞いた。どうせ負ける試合なら、沢山データをとって、一つでも小さなほころびを見つけ出せればいい。いろんな球種のあるワカホシは、実験台として使うには最高だ。


 七回裏、四回目の打席、ワカホシもさすがに手持ちの札がなくなった気がした。どんな変化にも対応し、バットが届けば、ストライクだろうがボールだろうが関係ない。どんな変化もチルチルには通用しなそうな気はした。パニックが変化球の指揮者をやけくそにさせた。


 これが一番びっくりするに違いないと、ワカホシが選んだのは、ストレートだった。変化しないのが、一番の変化だ。変化球の先入観が、ストレートを驚かせるはずだ。


 しかし、チルチルは驚かなかった。チルチルは推理も予測も何もしていない。ただ、投げられる瞬間からホームベースの到着する間のボールを見て打つだけだった。ホームランを打つのに、予想も、読みも必要なかった。四本目のホームラン。


 チルチルはちょっとがっかりしていた。できるなら、もっと見たことのない変化球を見せてほしかった。


 ワカホシは、絶望にマウンドでしゃがみこんだ。彼は、この試合で、チルチルには対処方法がない、という結論だけを手に入れた。

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