第24話 ナツカワ2 -沈没-

 ナツカワはマウンドで両手を腰に手を当て、仁王立ちでチルチルと対した。相変わらず怖い顔をしていて、チルチルは、この人とは一生仲良くはなれんだろうと思った。


 チルチルはいつもと同じように、ホームベースの反対の方を向き、体をひねってピッチャーの方を見る独特なフォームで立つ。ナツカワは顔をしかめた。


 きっと、小さな体で回転力を増やすために考えられた打ち方なのだろう。しかし、そんなこざかしい知恵は、百年を超える野球の歴史の中で、無数の選手達により研磨されたどり着いた伝統的バッティングフォームに対する冒涜としか思えない。その薄っぺらい化けの皮はすぐにはがしてやる。


 キャッチャーはストレートを要求し、外角低めに構えた。それは強打者への定番の攻め方だった。ナツカワはうなずいたが、ストライクゾーンのど真ん中に投げるつもりだった。真ん中でも打たれないことを証明して、間抜けなショーを、いち早く終わらせたかった。


 絶対打たれるはずはないと思いながらも、ナツカワは真剣に集中して投げた。回転のいいストレートが、真ん中のやや高めに投げられた。


チルチルにはボールが良く見えていた。サトシのボールよりは多少速くて、回転量も多かった。しかし、チルチルには大した差には思えなかった。


 バットの芯は狙い通りに、ボールの中心の4.5ミリ下を打ち抜いた。快音が響く。放たれた打球は、全く落下する気配も見せず、一直線でバックスクリーンの、LEDビジョンのパネルを直撃した。


 驚きの声のあと、一瞬の沈黙があり、どちら側のファンからも、大きな歓声と拍手が聞こえた。かなり多くのファンは大笑いした。余りにも驚いて、大笑いしたのだった。


 チルチルは言われた通り、ベースの踏み忘れをしないように気を付けてちょこちょことダイアモンドを一周した。ベンチに戻ると、選手やコーチたちがハイタッチの準備でベンチの前に並んでいた。


 チルチルは、ホームランを打った選手が、ベンチ前で自軍の選手達と手を合わせるのをビデオで見たのを思い出し、真似をして手を合わせた。ビデオと違っていたのは、チームの選手達が大喜びではなく、驚きで呆けた顔をしていたことだった。ママ・ティナだけが一人「ブラボー、ブラボー」と踊り出さんばかりに、大騒ぎした。


 ナツカワは、ショックで呆然としていた。確かに真ん中高めという舐めきったボールを投げたのは確かだった。それでも素人が打てるようなボールではなかったはずだ。普通の高校生なら二十センチ下を空振りしてもおかしくはない。


 慌ててキャッチャーが駆け寄ってきたが、ただただウザかった。「気を取り直していこう」みたいなことを言われると、余計にむかついた。


 気が動転したナツカワは、次のバッターにデッドボールを与え、その次のバッターにもヒットを打たれた。ピンチになったが、最後は何とかレフトフライに抑え、一点だけで何とかしのいだ。ただ、ベンチに戻ったナツカワの目は泳いでおり、これはまずいなとウドウ監督はあせった。


 その後。チルチルのホームラン以外は、両エースが無得点に抑え、三回の裏、ワンアウト後、再び次の打者として、チルチルがネクストバッターズサークルに入ると、もはや野球にではなく、チルチルの姿に球場中の視線が注がれた。ナツカワはまた苦々しく思った。


ホームランのショックから少しだけ立ち直っていた。確かに当たれば、遠くへ飛ぶ。しかし、出合頭の一発ということはある。ましてや真ん中やや高めの一番長打が出るコースである。何も考えずに振ったバットにたまたま当たっただけかもしれない。


ナツカワは科学的にはビギナーズラックという言葉に、救いを求めようとした。気負ったナツカワは二番バッターにフォアボールを出す。球場は、再び事件を期待する観客の声で、大騒ぎになる。


 ナツカワは自分を奮い立たす。世界中が敵の親衛隊であっても、相手を打ち取り沈黙させる。それがエースに与えられた義務なのだ。小さな少女がバットを担いでバッターボックスに、トコトコと歩いて来る。悪夢のような光景だと、ナツカワは思った。今度こそ、あいつを粉砕する。チルチルはまた独特の構えで打席に立った。邪悪な構えだと思う。


 キャッチャーはスライダーのサインを出した。ナツカワはキャッチャーをにらみつけて首を横に振った。


変化球で空振りさせたところで、あいつは真面目に投げたと言われるのがおちだ。ストレートだけで仕留めなければ意味がない。キャッチャーはナツカワのプライドの高い性格を理解して、サインを変えた。また、外角の低めに構えた。


 今度はナツカワも指示通り外角低めを目掛けて投げた。狙いよりはボール一個ほど高かったかもしれないが、決して悪いボールではなかった。


 チルチルはボールが指から離れる瞬間、さっきと同じ握りをしているのが見えた。回転も縦の逆回転で、直球だとすぐに判った。低めに来た球はバットの芯が打ち抜ける範囲内だ。


チルチルは迷いなく左足のつま先を軸に回転する。すくい上げるようなスイング。再び木のバットとは思えない金属音がして、打球はまたしても、バックススクリーンのLEDパネルを直撃した。パネルが壊れて、画像が乱れる部分が二か所になった。


 ナツカワは、今度は血の気が引いていくのを感じた。立っているとそのまま後ろにひっくり返るかと思ったので、しゃがんだ。


慌てて監督がベンチから飛び出しマウンドにやって来た。ナツカワのショックを考えると、ここは早めに交代させて、次の試合のために仕切り直しさせた方がいいと考えた。


「今日は、運が悪すぎた。次からだな」

 ナツカワは真っ青な顔で、監督を睨みつけた。

「何言ってるんですか。投げますよ」


 このままでは、自分があの小さな女に世界で初めてマウンドから引きずり降ろされた最初の投手になってしまう。それだけは絶対に耐えられない。


 監督もナツカワの面倒な性格をよく判っていた。無理やり交代させて、恨まれでもしたら、この一年間面倒くさいことになる。


「じゃあ、頼んだわ」

 監督は一言だけ言うと、ピッチングコーチと共に、ベンチに引っ込んだ。ナツカワはヨレヨレではあったが、後の二人を打ち取ったのはさすがだった。


 三回目の対戦は、五回の裏ツーアウト、ランナー無しの状況だった。もはや、チルチルの打撃は決して奇跡的な偶然でないことは、球場の全員が判っていた。偶然だけで、バックスクリーンへの打球が二回続くわけがない。野球はすでにチルチルの手の中にある。   


 ベンチを出る前に、チルチルとママ・ティナは、監督のサギザワに呼ばれた。サギザワは少し困った顔で二人に言った。

「悪いんだけどさあ。もう、スクリーンにぶつけるのはやめてくれよ。修理費がかかるから、きっとオーナーから文句が来る」


 チルチルはレフトスタンドの上の、ビール会社の看板にぶつけることに決めた。あの看板は壊しても弁償しなくてもいいのだなと、三回確認して、安心してベンチを出た。


 もう何が何でも抑えるしかない。もしまた打たれるようなら、その屈辱は、素っ裸でドームの天井から逆さまに吊るされた方がまだましだ。ナツカワは鬼の形相でチルチルを待った。キャッチャーはナツカワが見たことのないほど興奮しているのを見て、更に不安になった。


 キャッチャーは、初球にスライダーを要求した。さすがにストレートを二球続けて打たれており、同じボールを投げるのはエースナツカワとは言えリスクが高すぎる。「消える」と言われるナツカワが投げる球界最高級のスライダーを、素人が初見で打てるわけがない。


しかもナツカワを落ち着かせるのに、一球ストライクゾーンから外させようと考えた。ナツカワもサインにうなずいた。ナツカワも、プライドよりアウトを取りに来ている。キャッチャーはほっとした。


 チルチルはナツカワのフォームを見た。確かに体の動きは、さっきと何も差がないようだが、ボールを握る人差し指と中指の間が少し狭くなっているのと、ボールの縫い目が少し違って見えた。そしてボールには斜め下向きの回転がかかっている。これは外側に曲がりながら落ちるボールになる。


 いいボールだとキャッチャーは思った。ストライクゾーンから落ちていくボールで、振ってくれればもうけもの、万一バットに当たったところで、せいぜい内野ゴロにしかならない球だ。


 曲っていくボールを見て、これは、ワンバウンドにはならない。バットの芯は全然問題なく届くと、チルチルの眼はすぐに認識した。少し体の回転軸を前に傾け、さっきより長くバットを伸ばした軌道でボールを打つ。

キーン。


「うそ」

 キャッチャーは思わず声を上げた。理論的には可能だとしても、誰もが打てないボールだった。


 打球は左中間を越え、客席を越え、狙ったビールの看板の上部にぶつかった。チルチルは狙いよりも少し打球が上がったと思った。まだ完全にボールとバットに慣れていない。もう少し時間があれば、更に調整できるだろう。チルチルは、観客の不思議などよめきの中、ダイヤモンドを一周し、ベンチに戻った。


 サギザワは、これはとんでもない兵器を手に入れてしまったと、身震いした。もし、この究極の兵器をちゃんと使いこなせなかったとしたら、自分の責任になるのは間違いない。彼女は自分にはもろ刃の剣だ、と思った。


 ナツカワは、マウンドで立ちすくんでいた。全ての思考が失われようとしていた。この球場にいる全員が自分をダメ人間と認定していると思うと、本当にめまいがした。キャッチャーがマウンドにたどり着く前に、ナツカワは気絶して、卒倒し、担架に乗せられ運び出された。


 結局、リリーフ投手からもホームランを打ち、チルチルはデビュー戦で、四打席連続ホームランというとんでもない記録を作った。

 




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