第21話 チルチルとサトシ2 -初春、池袋-
サトシは、入団してから約二年の間、遠征で試合がある以外は、練習場以外は寮とそこから一番近くにある駅前の商店街以外に、出かけたことは殆どなかった。最近まで未成年だったので、先輩と酒を飲みに行くというようなこともなく、特に入団した新人の年は、まずはプロでやっていくための体づくりで、殆どが練習グラウンドとの往復だった。
確かに電車に乗れば一時間もかからずに、東京のどこかには着くだろう。同期入団の連中は、車を持っている先輩とドライブに出掛けたりしていたが、サトシは、どちらかというと、休みはゆっくりと部屋でドラマのDVDを見たり、ゲームをしたりする方が好きだった。というわけで、いきなりTOKYOに行こうと言われても、正直、東京のどこへ行ったらいいものか、まったく思いつかなかった。
取りあえず、二人で駅まで歩くことにした。時折、通学の高校生などとすれ違うと、チルチルの身元がばれて、いきなりボーイフレンドと朝帰りなどと勘違いされたら大変だと心配になり、わざと速足にしてチルチルと距離を空けようとしたりしたが、チルチルは離されないように、小走りで追っかけて来てしまい、よけいに仲良さげに目立ってしまう。
「電車ね、判る?トレイン」
チルチルは最初、不思議そうな顔をしていたが、サトシが電車のポスターを指さすと、「ウンウン」と大きく頷き、どうやら今から電車に乗るという意味が判ったように見えた。
駅へ着いたら、駅の路線図を見て、どこへ行けばいいのか悩んだ。東京は寮とは反対の方である。
電車は神奈川県まで通じているらしかった。途中の大きな駅は池袋があった。そう言えば池袋には前に、親が一度来た時に、駅まで送りに行ったことがある。確か大きなデパートがあった。
「イケブクロ、行きましょうか」
「OK」
チルチルは、明るく返事をした。かっこいい発音だとサトシは一瞬思ったが、考えてみればチルチルは外国人だった。それにしても、なんで年下の新人に敬語で話しているのだろうか。サトシは自分は結局のところビビりなのだと、よくわかった。
確かに出かけるには、大きなスポーツバッグは邪魔になる。駅のコインロッカーを探して、そこに預けた。自分は交通ICカードを持っているが、チルチルは切符も買えないだろうから、カードを買ってあげないと、と思う。
財布の中には一万円札が一枚だけ入っていた。もし、女の子をエスコートするのだと、判っていたらもう少し持ってくればよかったと後悔した。サトシはカードを買い2000円チャージして、チルチルに渡した。人が改札を通る様子を見せ、「ほら、あそこにタッチ」と教えると、「OK、OK」と返事があった。
チルチルを先に行かせ、彼女が無事に改札を通るとほっとした。今度は自分が前を歩き、上り線のホームに向かう。9時前のホームは、通勤や通学で東京方面へ向かう人で混雑していた。サトシも朝の混雑を良く知らなかった。
電車には、すでに多くの人がいた。本当に駅で二人でちゃんと降りられるのか、心配になった。電車の中の路線図をずっと見て、後幾つと自分に言い聞かせた。洋服を引っ張られるのを感じ、どきっとして横を見ると、チルチルがジャンパーのすそをつかんでいた。少しうれしかった。
池袋駅では、大勢の乗客が降りたので、降りそびれることはなかった。取りあえず駅の構内に沢山の人。時々チルチルがはぐれてないか振り返る。まずは駅の外に出たいと思った。
チルチルは、きょろきょろしている。はぐれるかもしれないと思ったので、サトシはチルチルの手首をつかんだ。このくらいは問題ないだろうと、自分で勝手に納得した。エスカレーターにはチルチルは、一瞬ちゅうちょしてから、飛び乗った。
何とか外に出ると、青空があった。さすがに駅の中ほどの人通りはなく、ほっとした。
「ヒト、オオイ。ヒトダラケ」
チルチルはぶつぶつと言った。
「疲れた?」
「マダ、ツカレナイヨ。モットオオイ、キットツカレル」
さて、これからどこへ行ったらいいものなのか。格好つけて東京まで来なくても、近所のゲームセンターでも行っておけばよかったと、後悔した。そういえば、高校の時は、バトル系のゲームは、そこそこ強かった。しかし、結局、それって自分が楽しいだけじゃないか。デパートでも行くか。いやいや、デパートって何が楽しいんだろ。チルチルはきっと期待してるのだろうが、何も思いつかない。自分には手持ちのカードはなく、世間知らずの田舎者だということを改めて自覚した。
「ワー」
チルチルがひときわ高いビルを見付けて声を上げた。
勿論、サンシャイン60という名前は、サトシも知っていたが、まさか、自分が行くことになるとは思ってもみなかった。近くに見えるのに、歩くと意外と遠かった。まさか展望台と、水族館がセットで3200円もするとは思わなかった。上に上りたかっただけなのに、なぜか水族館とのセットで買わないのは申し訳ない気がして、買ってしまったが、財布の中の残りも少なくなってきて、はらはらした。
展望台から見る東京。地平線まで人間の作った建物で埋め作されている。チルチルはまた驚きの声を上げた。ジャングルを見て育った女の子に、この風景はどのように見えているのだろうか。異国で大都会を、窓から見下ろすチルチルの背中を見る。ひとりで遠くの国に来て、寂しくはないのだろうかと思う。
チルチルに水族館を説明するのは、難しかった。
「いろんな魚たくさんいるね。ガラスの向こうでたくさん魚泳ぐ」
サトシは、チルチルと話すと、なぜ自分の日本語までおかしくなるのか不思議だった。
「とにかく行こうよ。見ればわかるから」
チルチルのジャケットの袖を引っ張って、水族館の入り口まで連れていく。もしチルチルがいなかったら、水族館なんか一生行かなかったかもしれない。
ガラスのトンネルの上をペンギンの群れが泳ぐ。チルチルは頭上を指さし、笑い声を上げた。青いライトに浮かぶ無数のクラゲ。光を反射させばから泳ぐイワシの群れ。サトシは、海の生き物たちよりも、チルチルが楽しんでいるのかばかり気になっていた。
水族館を出て、地上に降りた時には、お昼近くになっていた。女の子に慣れた奴なら、こじゃれたレストランとかに連れて行くのだろうか。サトシが知っているのは、寮の近くのとにかく量が多い中華料理屋さんくらいだった。とにかく要領の判る店に行こうと思う。「マクドナルド」の看板が目に入った。
ハンバーガーの説明が難しいので、ビッグマックセットを二つ頼んだ。口に合わなかったら謝ろうと思った。席に着くと、隣りにいた学生らしい二人組の少年に、じろじろ見られているような気がして、少し恥ずかしかった。チルチルはコーラの入ったカップの蓋を開けて覗くと、「イラナイ」と言って、サトシに渡した。どうやら、コーラは嫌いなのか飲めないのかのどちらかだった。女の子にはジュースとかがよかったのだろうかと、後悔した。
チルチルは何も食べずにじっとサトシのビッグマックを見ていた。「これも食べたくないの?」と聞いても、黙っているだけだった。らちがあかないので、自分が先に食べることにした。外の包みを開けて、そのままかぶりつくと、チルチルも真似をして同じように食べた。
一口かじった後、「オイシイネ」と言う笑顔を見た時、サトシは自分がマクドナルドの社長になったかのように、うれしかった。チリチルはポテトもサトシと同じようにケチャップを付けずに食べ、何度かうなずいた。少なくとも、チルチルの口に合わず、食べられないことはなさそうだと判った。
店を出ると、サトシは次にすることが思いつかず、何より帰宅ラッシュの満員電車には乗りたくないので、ついつい「帰ろうか」と口に出てしまい、それにチルチルがうなずくと、ちょっとだけ後悔した。
ママ・ティナから渡された住所を見て、降りる駅を調べた。そう言えばママ・ティナがいないから夕食の準備もされてないんだと思い出し、パン屋に入り、サンドイッチとカレーパンとアップルパイにオレンジジュースを買って渡した。財布の残りは400円になった。その後、スマホで調べてマンションの前まで送った。「鍵は持ってる?」と聞いたが、チルチルには意味が判らないようで、首を傾げた。鍵を回す真似をしたが、チルチルには判らないようだったので、あきらめて手を振って「バイバイ」と言った。
「スイゾッカン、マタイクネ」
チルチルも手を振って、マンションの中に消えて行った。
サトシは、また電車に乗り、コインロッカーから荷物を回収し、寮の部屋に戻った。なんだか変な一日だったなと思った。一緒に駅まで歩く後ろ姿、水族館ではしゃぐ姿。チルチルの笑顔が、頭から離れなくなり、これはいかんいかんと思った。
彼女は間違いなくもうすぐプロ野球界のスーパースターになるはずだ。一軍を目指す俺は、ただ練習台として関わっているだけで、公式戦が始まれば、もう会うこともない。チルチルの周りは、日本を代表する輝くスーパースターたちだ。ハンバーガーではなく、いきなりステーキくらいはご馳走してくれるだろう。
この不思議な一日のことは忘れようと、サトシは決めた。
でも、ベッドに入ると、ペンギンを見て笑うチルチルの笑顔が浮かんできて、その後もチルチルのいろんな表情が、思い出される。サトシはちょっと切なくなって、溜息をついた。
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