第20話 チリチルとサトシ -休日-

 サトシはスポーツニュースで、チルチルがホームランを打ったことを知った。これで監督やコーチも、自分が打たれたのは実力がないだけのではなく、単にチルチルのバッティングが人間離れして凄いのだというのが判ってくれたと思うと、少しほっとした。それよりも、チルチルがホームランを打ったことが素直に嬉しかった。すぐに、家族や高校時代の友達に自慢したくなったが、自分のことでもないのに、それはちょっとおかしいなと、少し恥ずかしくなった。


 チルチルの周辺も、オープン戦の特大ホームランで、がぜんと騒がしくなった。スポーツ紙の一面は全てチルチルのホームランの記事が飾り、一躍チルチルは時の人になった。南の島から来た女の子が、初めての試合で場外ホームランを打った。シンデレラストーリー。彼女はグラウンドの妖精か、野球の女神か。


 ドルフィンズ担当の新聞記者が、チルチルを追いかけるようになり、野球担当だけではなく、週刊誌の記者やカメラマンが、うろうろし始めた。チルチルを防御するガードマン役の職員もたくさん必要になった。


「ちょっと、危ないからあっちいってよ」

 室内練習場での秘密の練習も、ついにマスコミに勘付かれ、ママ・ティナは、駐車場から練習場への移動の時に、チルチルに群がる記者たちを追い払うのが、新しい仕事になった。チルチルは何事かと驚いた。


「いったい、何があったの?」

「あんたのホームランのせいだよ」


 たった、一本のホームランで、世間が大騒ぎになる。確かに日本では野球は人気のあるスポーツなのだというのは、チルチルにも良く判った。ただ自分の名前が、その日、日本で最も検索されたキーワードになってしまったことは、もちろん知らない。


 オープン戦の最終戦が終わり、選手たちに一日だけオフが与えられた。丁度、その日ママ・ティナは入国管理局で日本在留延長の手続きがあり、どうしてもチルチルの相手をすることができなかった。チリチルは、せっかくの休日を一人で部屋に閉じこもるのも実に退屈だと思った。しかし、日本には誰も知り合いがいない。何かいい方法がないかと、二人は考えたが、一人使えそうな人間を思い出した。




 サトシは、夜、球団の寮の部屋で、プレステで「プロ野球スピリッツ」を一人で遊んでいると、突然携帯が鳴った。登録していない番号からだったので、もしかして何かの勧誘ではないかと一瞬思ったが、取りあえず出ることにした。相手はママ・ティナだった。


「あんた、明日チルチルの面倒見てよね。夜にはちゃんと部屋に届けるのよ。なんかしたら殺すからね」

「はい?」


 サトシは一体全体何事か全く理解ができず、殺すという言葉だけが頭に残り、かなりあせった。よくよく聞き返すと、明日はオフだが、ママ・ティナは一日用があって、チルチルの相手ができない。サトシは、チルチルが知ってる唯一の日本人だから、代わりに相手してやってくれという話だった。


 サトシは、これがママ・ティナとチルチルの思い付きのお願いだとは考えず、きっと球団の命令で、絶対に従わなければならないのだと思った。


 たまの休みに新しいゲームソフトでも買いに行きたいと思っていたが、せっかくの休日が消えた上に、夜まで拘束される。でも、チルチルの相手だと思うと、なぜか腹も立たなかった。


「とにかく朝7時に室内練習場まで来るんだよ。そこでチルチルを引き渡すから」


 ママ・ティナは、カメラマンが張っていたとしても、取りあえず朝早くに練習場に入ってしまえば、最悪は練習だと身を潜めておけば、それ以上に追いかけられることはないと考えた。あとはサトシが気を利かせて、中で練習している振りでもさせておけばいいと、南の人らしく、かなりおおらかに計画を立てた。

「ユニフォームやグローブなんか持って来るんじゃないよ。お金は持って来てね」


 練習場にユニフォームもグローブも持って来るな、金を持って来いとはどういう意味だと、サトシは益々訳が分からなくなった。念のために、バッグにスパイクとグローブは入れた。




 翌朝、取りあえず早めに練習場に行くと、誰もいなかった。七時になっても誰も来ないので、勘違いだったのかと心配になっていると、約束の時間から五分ほど遅れて、チルチルとママ・ティナは現れた。


 チルチルは、デニムのパンツに、ダウンジャケットというようなどこにでもいそうな女の子のいでたちで、しかも毛糸の帽子にマスクという芸能人の変装みたいなことをしていたので、さすがに一目でチルチルと判るのは、パパラッチ的カメラマンでも無理そうだった。サトシは、マスク美人という言葉を思い出し、マスクで口元を隠しているチルチルもなんだか可愛いなと感じたが、「俺は練習台だ。何を考えてるんだ、いかんいかん」と自分を戒めた。


「あんた、そんなでかいバッグ持って来て、邪魔でしょうがないだろ」

「でも、練習場に...」

「だから、休みだって言ったでしょうが。時間つぶしの相手してあげてって言ってるのよ」


 ママ・ティナは、自分の口の足らなさを棚に上げて、サトシをなじった。

「後は頼んだわよ。日本語だってもうずいぶん上手よ。くれぐれも変なことしないようにね。もししたら、あんたクビで死刑ね」


 ママ・ティナはチルチルとサトシを置いて、自分の用事のために車に乗って去ってしまった。


 サトシは、チルチルと二人残されて、どうしていいか判らず、もじもじした。ともかく夜まで時間を潰さなければいけないのは確かだった。


「ちょっと打つ?」


 サトシは、バットを振る真似をして、チルチルに見せた。

「ウン。ワカッタ」


 チルチルはテレビや、ママ・ティナとの勉強会で少しずつ日本の言葉を覚えていた。そして何より、故郷でフジタに教わった記憶があった。何となく言われていることが判る割合が多くなっている気はしていた。それでも、日本語を話してみるのは、ちゃんと話せているかと、ちょっとドキドキした。


 チルチルは私服のままで練習場に転がっているノック用のバットを持った。サトシはスパイクも履き替えずマウンドに上がった。チルチルは三回ほど素振りをして打席に立ち、サトシは肩をぐるぐる回したり、軽い準備運動だけでして、ケガしない程度の速さで投げた。いつもと同じように、チルチルのバットは快音を放ち、一直線の打球が後方のネットに突き刺さる。サトシは三球投げたところで、やはり、こんなぬるい練習をやっても意味がないと、マウンドを降りて、「もう、やめようか」と声を掛けた。


 チルチルは「ウン」と答えた。サトシは、野球以外に二人で何をやればいいのか、ちょっと困った。


 取りあえず、すぐに練習場から出ようと思った。「行こう」と手招きしてから出口を指さすと、チルチルは黙ってうなづいてから、またマスクをしてから、サトシの後を付いて来た。


 サトシは、寮から電車に乗って練習場に来たが、チルチルはママ・ティナの車で来たはずなので、サトシがちゃんとエスコートしないと、彼女はどこへも行けなさそうだった。


 サトシは勇気を出して声を掛けてみた。

「どこか、行きたい?」

 サトシは言った後でもまだちょっと緊張していたが、なぜだか少し楽しい気分にもなった。


「ウウン」

 チルチルは考え始めたようだった。どうやら、言葉が通じていないわけではなさそうだ。

 そして、チルチルは、小さな声で、ちょっと恥ずかしそうに答えた。

「トウキョウ」

「トウキョウ?」

 チルチルからの予期せず返答に、サトシはちょっと驚いた。

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