第18話 サトシ3 -秘密兵器-
朝、サトシは他の選手達と離れて、一人アップする。球団職員のブルペンキャッチャーと共にキャッチボールをして肩を作っていく。一軍の選手達も、サトシが同じ宿舎に来ているのは知っている。チルチルとの特別なメニューは、サトシも口止めされているので、絶対に話せない。
朝食や夜食には去年まで同じ二軍の寮にいた若手投手に声を掛けられることもある。
「おい、お前ここでなんか秘密の特訓でもやってんの?」
「いや、すいません。言えないんですよ。監督から言われてて」
「ふうん。お前も大変じゃん」
選手たちも、うすうすと、南の島からオーナーが引っ張ってきた女の子と関係があるらしいというのは感づいていたが、まさかサトシが、室内練習場で、がっつり打たれているとは夢にも思わなかった。
チルチルがこの室内の打撃練習場を使えるのは、野手が集合練習している時間しかない。幸いまだ雨の日はないが、雨でグラウンドが使えなければ、野手は室内で練習になる。天気が悪い日は、早朝の誰もいない時間にこっそりと打ち込むことも、計画されていた。
チルチルは、守備練習や筋力トレーニングが無いので、室内練習場での打撃練習が終わると、そのままグラウンド近くの森の中にこっそりと消えていた。チルチルはママ・ティナに、近くから石や松ぼっくりのようないびつな形の物に回転を掛けて投げさせ、それでもちゃんと正確に狙った方向に飛ばすというジャングルでずっとやっていた練習を、続けていた。チルチルが、この練習をやりたいと言った時、スズノスケはチルチルのためにグラウンド近くの森を、1ヘクタールほど、地主から買い上げてしまった。
サトシは、三十球ほど投げて肩を作ってから、チルチルを打席に立たせた。サトシも最初は自分に課した試練だと考えることにした。まずは、第一関門としてチルチルを抑える。勿論、一球だけではだめだ、少なくとも半分は芯を外させる。しかし、よくよく考えれば、プロの投手が女の子に半分以上打たれないようにしようと思っている時点で、随分と馬鹿げた話なのかもしれない。しかしどんな球をどこに投げても、場外ホームランに違いない打球を打たれ続けた。
ストレートだけではない。スライダーもツーシームもフォークも、一試合に何球も投げないチェンジアップも、何を投げても同じ結果である。とても現実は思えない。これは夢なのだろうか。いや、実は自分が21世紀の平和な国に生まれて、プロ野球選手をしていること自体が、幸せな夢なのかもしれない。実は今の自分は空想で、野球なんていうスポーツもただの妄想なのかもしれないなどと、SFのような話を考えてしまうのだった。
たまに打たれないボールは、ベースの手前でバウンドしてしまうとか、外角を意識しすぎて、バットの届かない場所に投げてしまった時だけである。すっぽ抜けてデッドボールのコースにいったとしても、チルチルは簡単にバットで払いのけてしまう。
打撃コーチのクロバタケはスコアラーを呼んでビデオを撮らせていた。サギザワははっとした。きっとこいつはさきがけしてスズノスケに動画を送り付け、チリチルのバッティング開眼を自分の手柄にするつもりだ。しまった、やられたと、サギザワ監督は歯ぎしりをした。実際には誰もチルチルに何一つとして教えてはいなかったのだが。
サギザワは、トイレに行く振りをして、慌ててスズノスケにメールを打った。
「オーナーの見付けて来たチルチル選手は、相当な潜在能力を持っています。オーナーの眼力には頭が下がります。後はコーチ陣が誤った方向に指導しなければ、大きな戦力になる可能性があります」
スズノスケは、サギザワのメールを見て、やはり自分の目は正しかったとご満悦だった。監督やコーチ達は今一信用でなきいが、自分が選んだ選手たちがちゃんと活躍すれば、日本一は間違いないと、いつも思っている。ここまでやって優勝できないようなら、今度こそ監督、コーチ、全とっかえだなと、葉巻をくゆらせながら考えた。
サギザワもクロバタケも、チルチルはまだマスコミや敵のスカウトには見せない方がいいだろうということで、意見は一致していた。チルチルが打ったのは室内練習場で、しかも相手は一軍でまだ投げたことのない若手である。大観衆の球場での真剣勝負で、果たして同じように打てるのかは誰も判らない。何せまだ本当の試合に一度も出たことがないのだ。騒ぎだけが先に大きくなっても困る。ただ、実際に外のグラウンドで打たせてみる必要はあるだろうと相談し、一軍の選手達が引き上げた後、夜に照明を点け、チルチルだけのためのバッティング練習をやることにした。
サトシは観客のいないグラウンドで、マウンドに立った。高校の時も、プロに入ってからも、ナイターの試合は記憶にない。初めてライトを浴びてマウンドに立つ。ただ、これは試合ではなく、観客が一人もいないバッティング練習なのだ。それは不思議な気分だった。
二年前、初めてのキャンプで、プロの選手達との根本的な体力の違いを思い知らされた。死に物狂いで練習についていった。自分の夢のためだった。しかし、今は、自分のためではなく、南の島からやって来た女の子のために、マウンドに立っている。
クロバタケは、チルチルに伝えた。
「いいか、とにかく遠くに飛ばしてみろ」
チルチルは外野の外は駐車場になっていて、車が何台か止められていたのを思い出した。ただ、その駐車場がレフト側なのか、ライト側なのか思い出せなかった。
「車に当たるかもしれないから危ないよ」
チルチルは、ママ・ティナを通じて伝えたが、サギザワもクロバタケもまさか場外に打球が届くとは夢にも思っていないので、顔を見合わせ苦笑いしてから、大丈夫だから打てと、チルチルに命じた。
「穴が開いても文句は無しね。私、弁償しないから」
チルチルはぶつぶつ文句を言いながら、打席に入った。
遠くへ飛ばすのなら、やはりバットの加速するレフト側の方向がいいだろう。グラウンドに立つのは初めてでも、ファールのルールは知ってた。白線の左側に打ってはどれだけ遠くへ飛ばしても、ファールになってしまう。そのリスクを考えると、狙いどころは左中間の一番フェンスが遠くにある方向だと狙いを定める。チルチルは一回だけ素振りをして、投球を待つ。
サトシのやや高めの直球は練習場と何も変わらず、ボールの回転も良く見えた。外角から少しだけ内側に曲がりながらベースの真ん中に向ってくるのはすぐに予想が付き、その通りの軌道でボールはやって来た。チルチルの振ったバットは、狙い通りにボールの中心の五ミリ下をとらえた。ボールは高々と飛んだ。チルチルが狙った角度よりもわずかに高く上がった。打球はエンジンが付いているかのように、フェンスを越えても全く落下しない。照明の当たらない夜空の彼方へと消えて行った。
サトシも、サギザワも、クロバタケも、その打球に、言葉も出なかった。
サトシはその後、直球を三球投げ、スライダーを二球投げた。その全てをチルチルは打ち返し、ボールは夜空に消えていった。
チルチルはジャングルでの練習を思い出し、久し振りにスカッと爽快な気分になった。しかし、サギザワとクロバタケはここで練習を止めさせた。球拾いを外に置かなければ、ボールが全部なくなってしまうと思ったからだ。サギザワはサトシとブルペンキャッチャーを呼び、今日見たことは絶対に誰にも話すなと、もう一度釘を刺した。
チルチルはまだまだ打ち足りないと思い、仕方なく闇夜の蝙蝠のように不規則な軌道で向かってくるボールを頭で想像しながら、十回ほど素振りをして帰った。
サトシは照明が消えても、なかなかマウンドから立ち去ることはできなかった。キャッチャーに促され、ようやくロッカールームに向った。見たこともない打球に、もはや悔しさもなくなっていた。チルチルは、もはや、抑えたい敵ではなく、憧れであり、アイドルになっていた。
彼女は本当にスーパースターになるのではないか?いや、そうなってほしい。絶対になるに決まっている。僕が最初に彼女にボールを投げて打たれたんだ。サトシは世界中に話したかった。
その夜、チルチルはホテルの部屋で、両親に手紙を書いた。島にはいつ届くか判らないが、様子はちゃんと知らせておきたいと思った。それに字をちゃんと書かないと、島の言葉を忘れてしまうのではないかと、心配でもあった。
「さむいけどだいじょうぶ。やきゅうはかんたんで、ちょうをつかまえるほうがたいへん。あんしんしてね」
毎日ボールを投げてくれる練習相手のピッチャーは、なかなかいい男で、それも悪くないというのは、書かなかった。
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