第17話 サトシ2 -パートナー-
サトシは投げ続け、チルチルは打ち続けた。角度を調整した打球は、もし球場だったら、間違いなく全てホームランだった。サトシは奇妙なゲームをやっているような気がした。いつか当たりくじが出るのを信じて、延々とガチャを回し続けているような感覚におちいった。
「お前、どんな変化球が投げられる?」
「一応、スライダー、カーブ、ツーシーム、チェンジアップ、フォークは投げられます」
「よし、全部の変化球を投げていけ」
「でも、キャッチャーとサインを決めてませんが」
クロバタケは、サトシをじろりと見た。
「キャッチャーまでボールがとどくんかい?」
サトシは恥ずかしさと悔しさで顔が熱くなった。
サトシは深呼吸し、自分を落ち着けてから、まずスライダーを投げた。スライダーは高校の時から決め球に使っていた。高校の県大会では、速球に合わせに来たバッターが、手元で逃げる変化球に、面白いようにタイミングを崩し、空振りを続けた。決め球のスライダーに、女子のバットが絶対に当たるわけがないと信じて投げた。
チルチルは、投手の握り方がいつもと違うのに気が付いていた。これはどういうボールが来るのだろうかと、注意した。投手はボールの右側をこするように投げた。斜め下に向った回転が掛かっているのが見えた。さて、どのような球筋になるのかと見ながらスイングのための動作を始めると、回転と同じ方向に球が外側の方へ逃げていくのが判った。ボールはベースの真ん中から外側に曲がってはいるが、これはバットの芯に届く範囲で間違いないと、チルチルの動体視力と反射神経は瞬時に理解した。
キーン。快音と完璧な打球。ストレートよりスピードがなく、ボールに力がない分、更にバットの力が加わったように見えた。ネットを突き破るような打球が飛んだ。
なるほど、回転がかかると、予想した通り、ボールはその方向に曲がっていく。また上向きの回転がかかっていないと、ボールは引力に従い落下する。チルチルは一球で、変化球の原理を把握した。これは楽しい。もっといろんな変化を打ってみたい。チルチルはそう思った。
「続けろ」
クロバタケの声が飛んだ。
今度はサトシは、インコースのボールから内角のストライクゾーンに入って来るスライダーだ。このボールは、デッドボールかと腰を引いたバッターが、ボールの変化でストライクを取られ、悔しがる姿を何回も見て来た。一流のプロでも最初から対応するのは難しいはずだ。これがいきなり打てたらもはや人間ではない。
チルチルには胸元目掛けて来るボールがよく見えていた。ピッチャーが指でかけた回転も、前のボールと同じように外側に向かって流れる方向だった。だったら、このボールは体からベースの方に動いていく。きっと打ちやすいコースに来る。チルチルの予想通りボールは、ホームベース方向に曲がって来た。後は、これまでの反復作業だった。
サトシは打たれた瞬間、もう後ろも振り向かなかった。自分はこの子に勝てない。
それでもサトシはプロだった。プロは嫌でも働くしかない。クロバタケは次はフォークボールを投げろと命じた。サトシは頷いた。少なくとも低めにストライクゾーンから外れるフォークは、見逃されることはあっても、打たれることはない。サトシにとっては最低限のプライドの確保はできる。サトシは絶対にストライクゾーンにボールが行かないように、それだけを意識して投げた。
チルチルには、人差し指と中指を大きく広げて挟み込むような、握り方が見えていた。これはきっと普通のボールより回転の少ないボールが来るはずだと、瞬時に判断した。注意深くなった時、野獣の目は鋭さを増す。ボールの軌道に集中する。見えてしまえば、何万回も繰り返したスイングが自然にバットを導く。回転の少ないボールはスライダーよりもホームベースの近い方で変化を始めた。落下の角度はさっきの変化球よりも大きいようだ。ボールは地面ぎりぎりまで落ちそうだ。しかし、チルチルにはなんてことはなかった。全ての変化球の動きは、蝶や蜂よりも単純だった。
その後もチルチルは想像を絶する打球を、練習場後方のネットにぶつけ続けた。クロバタケは、このままチルチルに練習を続けさせていいものか迷った。これ以上打ち込みをやらせて怪我でもされたら、大問題になる。他のバッターが、これから調子を上げて行こうという段階で、この少女は誰よりも出来上がっている。いや、出来上がっているどころではない。多分、日本で最高だ。クロバタケがこれまで見た中で、一番速い打球を飛ばしているのだ。
取りあえず、クロバタケはチルチルに「今日はこれまで」と言って、打席から出させた。チルチルはもう百球ほど打ちたかったので、ちょっとがっかりしたが、よくよく考えると、もしかしてボールを沢山壊してしまったのだろうか、弁償させられるのだろうかと、またちょっと心配になった。
明らかに外野の上を越える打球を続けざまに打たれ、サトシは恥ずかしさで顔から湯気が噴出しそうになった。決して状態は悪くないのは、自分が良く判っている。ボールの何球かは、ストライクゾーンのコーナーに綺麗に決まった。あのコースは、首位打者を狙うような超一流でも、続けてヒットが出るとは思えない。いやそれどころではない。彼女はストライクゾーンを外れたボールも、全てバットの芯で打ち返しているのだ。
確かに自分は豪速球を投げるような投手ではないが、コントロールとか、変化球とか、全体的なバランスでも、一軍の連中とそん色ないレベルに、近付いているはずだ。ところが、一球たりとも通用しなかった。
サトシは、サギザワ監督に呼び寄せら、帽子を取り、緊張して、監督とコーチ二人の前に立った。
「暫く、頼むわ。お前があの子の専属のバッティング・ピッチャーだ」
サトシを一軍キャンプに呼び寄せる前、監督とコーチたちは、キャンプではいつも行く那覇にある居酒屋の個室に集まって相談していた。
万が一チルチルが戦力としては役に立たなくても、試合の打席に立たせて、プロのボールにバットを当てられるくらいのレベルまでもっていけるのなら、ちゃんとした投手を付けてまじめに練習させるのも、ありよりのありか、などと、話し合っていた。それでは練習相手は誰がいいのだという話になった時、バッティングコーチ、ピッチングコーチはそれぞれ条件を出した。バッティングコーチは、ケガがなくて、コントロールが良くて、幾つかの変化球が投げられること。ピッチングコーチの要求はもっと簡単で、開幕一軍候補は全員やめてくれということだった。それでは、誰がいいんだとなった時、ピッチングコーチからサトミサトシの名が挙がったが、反対はなかった。実は監督も、バッティングコーチもサトシが右投げなのか、左投げなのかさえもよく知らなかったのだ。
投手コーチのムナタカは、サトシが、直球の伸び、変化球、コントロールどの点でも大きな欠点の無いことを知っていた。つまり練習相手としては最適である。二軍からも調子が上がっているという情報は伝わっていた。しかし、一軍では欠点がないだけでは通用しない。全てが標準をクリアした上で、相手を圧倒する長所が必要だった。必殺の武器の無いサトシが一軍で活躍するのは、正直難しいとコーチたちは考えていた。最悪、サトシが連日のバッティング練習で、調子を壊したり、投げすぎで故障があっても、今年のペナントレースには大きく影響はしないだろう。他にもいい投手はいるし、あのオーナーのことだから、また外国人を探してくる。
サギザワ監督は、室内練習場の一角にサトシを呼び付け、多少申し訳なさそうに説明を始めた。
「いいか、このキャンプで、お前はあの子の専属のバッティングピッチャーをやってくれ。守備練習や試合形式には加わらなくてもいい。チームの命運がかかった大事な仕事だから、よろしく頼むよ」
サギザワは、そう言って、サトシの肩を二度叩いた。
自分は、一軍の選手として呼ばれたわけではなく、この少女の練習台に呼ばれたのだ。つまり自分が開幕で一軍のベンチに座ることはない。そう思うと、サトシはとてもがっかりした。
練習後、ロッカールームから出たところに、チルチルと、ママ・ティナが立っていた。
チルチルは、水色のジャージと白いウインドブレーカーに着替えていた。それは街を歩いている学校帰り女の子たちと、何も変わらない姿で、サトシはちょっと見とれてしまった。そうか、あの子にコテンパンに打たれたんだと思うと、また自分にがっかりした。
チルチルは、サトシを見付けると近寄ってきた。くりっと大きな目と愛らしい顔付きが見えた。チルチルはたどたどしい日本語で話し始めた。
「ヤキュウ。オモシロイ。アシタモヤルヨ。アリガト」
サトシは日本語にびっくりした。チルチルはちょっとはにかんで右手を出した。サトシも右手を出して握手すると、また、笑ってから、照れて走り去った。
サトシの右手に自分より小さな手の、暖かい感触が残り、思わず手をじっと見た。今、この子のすごさを世界で一番理解しているのは自分だ。自分がこの子のパートナーになったのだと思うと、悔しさがなぜか少しだけうれしさに変った。
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