第15話 チルチル11 -一軍キャンプ-

 チルチルは今日は野球場で思いきり遠くまでボールを打ちたいと、ウキウキしながら球場へ出かけたが、監督のサギザワは、またしても、記者のいない室内練習場へ、バスからこっそりチルチルたちを移動させた。


 一軍キャンプにチルチルを呼んだ事自体をマスコミには隠していた。スズノスケには、「突然に試合に現れ衝撃的なデビューを果たした方が話題性がありますよ」などと、適当な理屈をつけたら、意外にも簡単に納得してくれたので、ほっとした。勿論、素人の女の子をいきなりキャンプで練習させるなんて、何を書かれるかわからないとびびったというのが、本当のところだった。


 サギザワは、若手のピッチャーを一人ブルペンから選んで呼び付けた。キャンプが始まって既に十日が経っており、ピッチャーももうキャッチャーを座らせ、時には変化球を交えた投球練習を行っている時期だった。特にサギザワに呼ばれたオキモトという若手投手は、初めて一軍の春キャンプに参加できたので、どうしても首脳陣にアピールしたく、早くから精力的に体を作っていた。大事な戦力になりそうな若手をわざわざこんな余興に使うとは、自分も何だか間抜けだなと、サギザワは苦笑いした。ピッチングコーチも、変な練習で調子を崩したら大変だと、嫌な顔をしていた。


 室内練習場に入ると、まず、打撃コーチのクロバタケが、チルチルに付いて、素振りをさせた。左足を軸に回転する独特のスイングを見る。確かに速い。四番のフカメどころか、今まで見た外人を含めても一番速いかもしれない。しかしクロバタケもチルチルが、果たしてすごいバッターなのかどうか評価のしようがなかった。こんなへんてこりんな打ち方は、今まで見たことがない。


 チルチルはクロバタケの指示で、バッターボックスに入った。初めて人間のピッチャーが投げるボールを打てると思うと、ワクワクした。フジタから聞いた野球や、漫画で見た野球の中に、自分もついに入ることができる。チルチルの唯一の不安材料は、失敗して打球を人に当ててしまうことだった。ピッチャーの前のネットはあるが、どれだけ強度があるかもよくわからない。


 チルチルは、ママ・ティナに聞いた。


「近くにいるピッチャーには当てたくないから、目標をちょっと左にずらしていい?」

「好きなところ打てば?どうせホームランはフェンスの外に打てば、どこへ打ってもいいんだから」

 チルチルは頷いてから、バッターボックスに向った。


 バッティング・ピッチャーを任されたオキモトは、練習でなく、レクレーションに付き合うつもりで、マウンドに立った。万一体の方にボールが抜けるたら、あの女の子は避けることもできないだろうから、とにかくデッドボールだけは出さなように気を付ける。外角でそれもできるだけバットに当てやすいように、ベルトの高さ目掛けてゆっくりと投げようと考えた。


 チルチルが打席に入った。普通の高校生のような小さな女の子だ。ベースと反対に向って立ち、体を捻って背中が見えるようなおかしな立ち方に、オキモトは少し呆れた。せめて高校の女子野球程度の実力がありそうなら、まともに付き合おうとも思うが、バッティングセンターにも行ったことがない素人かと思うと、やる気は更に失せた。適当に投げた一球は外角高めでわずかに外側にそれた。


 チルチルはボールがオキモト投手の手から離れた瞬間に、バットの芯が届く範囲にボールの軌道があるのを把握した。後はいつものスイングをするだけだった。オキモトは今まで聞いたことのないボールがつぶされる音を聞いた。金属バットを使っているのかと思った。音と同時にオキモトの右斜め上二メートルほどのところを打球は通過した。体が反応する時間もなかった。振り返った時にはすでに後ろのネットに突き刺さっていた。


「おい、何だ今のは」

「まぐれでも速いですね」

 サギザワとクロバタケの二人は驚いて、素人の野球ファン程度の話をした。

「おい、もう一球投げろ」


 オキモトはうなづくと同じように外角低めに投げた。キーン。またしても聞いたことのない音がして、打球がさっきと同じくオキモトの右上を飛んだ。


 サギザワとクロバタケは顔を見合わせた。信じられない光景に、何と言っていいのかよく判らなかった。もし、球場だったら、今の打球はどこまでとんでいたのだろうか。二人には想像がつかなかった。


「おい、もうちょっと速く投げろ」


 マウンドのオキモトも、気が動転し始めていた。見たことのないバッティングフォームから、見たことのない速さの打球が放たれる。何か別のゲームをやっているような気さえした。オキモトは力を入れて投げた。多分八割程度の力は入っている。普通の高校生の選手くらいなら、軽く抑えられるスピードで投げた。


 キーン。


 再び、乾いた甲高い音が響き、同じ軌道のライナーが放たれた。オキモトはあせった。


「いいから本気で投げろ」

 クロバタケの大きな声が響くと、オキモトは自分がさらし者にされているような気がした。なんでこんな馬鹿げたことをやっているのだろう。よし、だったら、本気の力を見せつけてやる。オキモトは試合と同じように、全力で外角低めを狙い投げた。


 キーン。室内に乾いた音が響き。また同じ軌道のライナーが飛ぶ。オキモトは激しく動転した。俺は何かとんでもないへまをやらかしているのではないか?素人の女子に完璧に打たれている。自分はフォームを崩してしまったのではないかと、一瞬疑った。


「もう一球だ」

 なんで打撃コーチが投手の俺に指図するのだと、少し腹が立ってきたが、野球選手として負けたまま引き下がるわけにはいかない。今度はど真ん中の高めを狙って、渾身の力で投げた。学生時代はこのボールで三振の山を築いてきた。素人に打たれるはずがない。


 チルチルには良く見えていた。さっきより高めに来る球は少しスピードが増して、少し回転量が多い感じがした。多少軌道が上向きになると、瞬間的に判断できた。難しい作業ではなかった。ボールの中心の二ミリ下を打てば同じ軌道の打球が打てる。それは難しい作業ではなかった。


 全力で投げた球が簡単に打ち返された。オキモトは顔が紅潮して火照るのが自分でも判った。首脳陣に失態が見られた。もしかしたら、これで自分の評価がだだ下がりするかもしれないと思うと、すぐに帰りたくなった。ここは公開処刑場だ。しかし、クロバタケは容赦しなかった。

「もう一球や」


 オキモトはパニックに陥っていた。振りかぶり方や、左足を上げるタイミング、肘を上げる高さ、球を放すタイミング、全ての動作のリズムが狂った。とにかく力任せに投げた球はすっぽぬけて、チルチルの脇腹目掛けて飛んできた。


 チルチルの回転は始まっていた。全員が声を上げる間もなく、チルチルは自分の体に向って来たボールをバットでさばいた。打球は左側に緩いライナーで飛んだ。


 全員がほっとした。


「あんた、どこ投げてんのよ」

 ママ・ティナは、危険なボールを投げたオキモトに、ネット越しに怒鳴った。目が泳いでいるオキモトを見て、サギザワ監督はこれ以上投げさせるのは無理だと気が付いて、オキモトをマウンドからおろした。オキモトはすっかり、打ちひしがれて、下を向いて打撃練習場の外へ出た。


「しかし、運がよかった」

「ああ、万一、怪我でもさせたら、オーナーに殺されてたなあ」


 サギザワとクロバタケは胸をなでおろした。そしてすぐに、同じ場所を射抜き続けた弾丸ライナーを思い出した。


「しかし、あれはまぐれでもすごい」

「監督、まぐれでプロのボールが打てると思いますか」

「うん。確かにありえない」


 女の子としても、決して大きいとは言えないチルチルが、見たこともないような奇妙なスイングで、全てバットの芯で打ち返し続ける。しかも打球の速さはチームの誰よりも速い。


「あんた、大丈夫なの?」

「やっぱり、体に目掛けて来たボールを前に打つのはちょっと難しい」

「何、言ってんの。ボールが体に来たら逃げなきゃダメじゃない」

「ええ?打つ方が簡単だよお」


 チルチルには、自分に飛んできたボールは避けるよりも、蜂や蚊を打つようにバットで払う方が簡単だった。さすがに、サギザワとクロバタケは、チルチルが、偶然ではなく、簡単にデッドボールをバットでさばいたとは考えてもいなかった。

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