第14話 チルチル10 -一軍へ-

 チルチルは、120キロのボールをもう一球打った。


 チルチルは最初はてっきりバットのできるだけ先の方がスピードが上がるものだと思っていた。ママ・ティナのアドバイスで、バットには芯があり、芯に当てた方がバットの反発力を最大限に利用できること、そして何より折れないことを学んだ。


「いいか、もうマシンは狙わなくてもいい。ネットのその上を狙え」

 ママ・ティナを介したコーチの指示に、チルチルは頷いた。


 ストライクゾーンに来たボールに、チルチルのバットの丁度ロゴの部分が衝突する。今までより軽い感触があった。確かに芯に当たるとバット自体の反発力が伝わり、更に打球にスピードが加わる。打球は更に長い直線を引き、マシンよりも遠く後ろに張られたネットに突き刺さった。


 フナサカも、このようなまぐれが何回も続くことはあり得ないのを、知っていた。これは紛れもなく実力だ。


 マシンのスピードを、140キロまで上げることにした。これがちゃんと打てれば、高校野球でもそこそこ通じるレベルにはある。つまりは初心者のバッターとして、とてつもない能力があることは認めなければならない。いや、認めるとかそういうレベルの話ではない。この女の子は、今日初めて打席で動くボールを打つのだ。才能があるとかセンスがあるとか、そんな簡単な言葉では片づけられない。


 ボールの速度を上げることをチルチルに伝えた。初めて打席に立つ人間は、まず例外なく恐怖を感じる。140キロというスピードで、ましてや当たり所が悪ければ死ぬ可能性すらある硬式のボールだ。普通の人は打席のベースから離れたところに立ち、腰が引ける。しかし、チルチルは自分の手の長さも考えてか、恐れることなくベースよりに立った。これなら小さくても外角も問題なく届く。こいつには恐怖がないのか。フナサカは、自分の方が震えそうだった。


 140キロのボールがマシンから放たれた。初動が少し早くなっただけでチルチルの動きは何も変わらない。そして打球は全く同じ軌道で、バッティングマシンの上を飛ぶ。次の球も、その次の球も同じ動画を何回も繰り返し再生するように、打球で直線が同じように引かれる。


 チルチルは教えられた通りバットの芯を当てることに集中した。ボールの軌道も回転もはっきりと見える。縫い目の動きまではっきり見える。それはジャングルを飛ぶ蜂やトンボの、不規則ででたらめな動きに比べれば、実に判りやすい。燕のスピードに比べれば、全然ゆっくりとしている。しかも縫い目の小さな突起はあるものの完璧な球に近い。つまりボールの回転がどれだけあっても、打つ面の形はまったく変わらない。どの部分を打っても、ボールの軌道は同じものになる。


 チルチルの出した結論。バッティングは思ったより簡単だ。


 フナサカはピッチングマシンに近付き、マシンを操作する職員に耳打ちした。

「スピードを落としてカーブを設定しろ」


 自分もそうだったが、直球の後の初めての変化球は、全くタイミングが合わず、また外側へ逃げていく行くボールの動きに、まともなスイングができなくなる。フナサカはただ意地悪な興味として、つけあがった素人が、初めての変化球に驚く姿が見たかった。


 チルチルにはピッチングマシンの横で、二人のおっさんが何やろごそごそやっているのは見えていたが、特に気にはしなかった。今から行くぞという合図でフナサカが手を挙げると、チルチルは打席に入った。ピッチングマシンのホイールが回転し始めると、チルチルは気が付いた。さっきと回転のスピードが違う。特に下のホイールの回転が遅い。スピードは間違いなくさっきのボールより遅いはずだが、果たしてどんな軌道のボールが来るのか、チルチルは少しだけ注意深く見た。マシンから放たれたボールはさっきとは反対に斜め下向きの回転が掛かっているのが見えた。ボールは途中から引力に従い落下しながら少し外側へ逃げていく。予想通りだ。バットの芯には十分届く距離にある。チルチルにはカーブの回転も軌道もくっきりと見えた。少し手を伸ばし気味にして、バットの芯をボールに合わせる。またしても、弾丸ライナーが、さっきとまったく同じ軌道で飛ぶ。


 フナサカは、言葉を失った。いろんな天才と呼ばれるバッターを見てきた。天才とは、奴らなりの必死の研究や努力の末にたどり着いた境地なのだ。ところが、目の前にいる小娘は、今日初めて動く球を打った。しかも、初めて見る変化球に難なく当てた。当てたどころではなく、狙いを定めた場所を狙撃手のように射抜いたのだ。


 こいつはモンスターだ。もはや俺にもどう扱っていいか判らない。




 夕方、一軍監督のサギザワのところへ、フナサカから電話があった。興奮しているのか或いは気が動転しているのか、話が要領を得ず、何を言いたいのかさっぱり判らなかった。よくよく聞くと、二軍にとんでもない選手がいるらしかった。名前を何度か聞き返したが、チルチルだとかいう名前が聞こえるので、最初は誰かのあだ名かと思った。まさか、あの南の島からやって来たちびっ子に、フナサカが大騒ぎしているとは、夢にも思わなかった。とんでもない化け物だから、すぐに一軍に連れて行けとわめいているが、サギザワには冗談かと思えた。或いは一軍の打撃コーチと組んで、何か企んでいるのではないかと、勘繰りたくなった。


 ともかくスズノスケの息のかかった選手をむげにするわけにもいかず、サギザワはチルチルを一軍キャンプに移すことは取りあえずOKした。


 チルチルとママ・ティナが、夕食の後、二人で野球のビデオを見ていると、突然電話があった。フナサカから一軍のキャンプに合流することを告げられた。明朝出発し、沖縄の別のホテルに移ることになった。また移動の支度をしなければならず、チルチルは野球選手は実に面倒臭いと思った。


「野球の選手なんて、動き回るのが仕事さ」


 もしそうだとしたら、羊飼いみたいなものか。チルチルの島は小さすぎて、羊飼いはいなかったが、大きな草原の国には羊と共に移動する人たちがいると学校で聞いたことがあった。ただ、羊飼いもこんなに頻繁に引越しはしないだろうと思う。これほど動いたら、羊が言うことを聞かないだろう。




 一軍の泊まる新しいホテルは、暖房がしっかりしていて、これは快適だとチルチルたちは喜んだ。庭では素振りが出来そうだったが、絶対にホテルでは練習するなというお達しが出た。一軍のキャンプには報道陣がたくさん来ているらしく、もチルチルがこっちに来ているというのを、どうして監督は隠したがっているらしかった。


 食事も選べる種類が多く、前よりも待遇が格段によくなっている。ママ・ティナに聞くと、これが一軍と二軍の差だと教えられた。なるほど、どうせ同じようにボールを打つなら、一軍にいた方がいいと思った。


 きっと一軍の方が野球が上手いのだろうが、その差はチルチルにはまだ良く判らなかった。とにかく一軍の夕食はリンゴとオレンジが食べ放題なので、絶対に一軍に居座り続けようと、チルチルは思った。


 ママ・ティナはレストランで次から次へと入って来る選手を見て、その度に、あのノッポは去年8勝しかできなかったエースのアカイソだ、あの胸板の厚いのはリーグで三振の一番多かった四番バッターのフカメだと、テレビに出る有名選手が沢山いるので、目をキラキラさせて、嬉しそうにチルチルに伝えるのだが、相変わらずチルチルは、日本人の顔と名前を覚えるのは難しいと感じていた。




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