第13話 チルチル9 -回転する女神-

 キャンプ参加の初日、練習前に、監督やコーチと順番に挨拶していった。日本人の名前はなかなか覚えられなかった。しかも困ったことに、一軍にもほぼ同じ数のコーチがいるらしかった。コーチ全員の名前を覚えるだけで一年以上かかりそうな気がした。グラウンドの選手たちに号令が掛けられ、ホームベースの近くに全員が集合すると、二軍監督のフナサカからチルチルが紹介された。コーチの一人が拍手をすると、選手全員がそれにならって拍手をした。チルチルは沢山の選手を見て、これは全員の名前を覚えるのはとても無理だと、あきらめた。


 練習はチルチルだけが別メニューだった。ノックや、筋トレや遠投など、普通の野球の練習は、チルチルには無理だった。そもそもチルチルは50メートル以上走ったことがない。フィジカルモンスターたちが集うプロ野球選手たちと同じ練習ができるはずがなかった。バットを振ることにおいてのみ、モンスター級のスピードを披露できたが、実際のところ、女子高のソフトボール部の練習についていけるかすら怪しい。


 二軍監督のフナサカは、チルチルをグラウンドのベンチの前に呼んだ。フナサカは現役時代は体重が百キロを超える巨漢で、三振も多いが、当たれば飛ぶという、その体形から「ダルマ砲」というニックネームで呼ばれていた。スズノスケは、解説者だったフナサカを、大きくて見栄えがいいという理由で二軍監督としてむかえ入れていた。


 一軍監督のサギザワもフナサカとは選手時代から交流があり、体形に似合わず意外に細かい理屈を語り、何より若手から好かれていた。こいつならいい若手を拾い上げてくれるだろうと期待していたのだが、どうやらダルマは、夜の飲み会では、一軍の監督は判ってないとか、俺ならこうする、俺が一軍監督なら優勝だと吹いているという噂を聞いた。若手から好かれているのも、夜の財布として大盤振る舞いをしているのが理由らしかった。要はサギザワ監督はスズノスケ以外からは、ほぼ認められていなかった。


 フナサカにとっても、チルチルは爆弾みたいなものだった。使い物にならないのは当然だが、自分が潰したと思われたらたまったものではない。また、スズノスケのスカウティングは出鱈目だったというのをあからさまにしてしまうのも、それはそれで問題になる。本来なら、矢面に立つはずのバッティングコーチが、幸か不幸かインフルエンザにかかり、キャンプに来ていない。なんという運の悪さだと少し腹が立った。うまい方法はないかと頭を痛めていた。ともかくそのミサイルのような打球とやらを見てから考えよう。まだ、開幕までは時間がある。


 まずは、ティバッティングからやらせて見ることにした。端っこの守備練習の邪魔にならないところに、念のためケージを立て、打たせることにした。ケージの前方は開かれており、誰も人はおらず、その先はグラウンドを仕切るフェンスが90メートル先に見える。


「とりあえず、あっちの方へ打ってみろや」

 フナサカは、フェンスに建てられた、ファールエリアを示すポールを指さして言った。


 チルチルは心配になって、ママ・ティナに聞いた。

「どこまで飛ばしても大丈夫なの?ボールがなくなるよ」

「ああ、気にしなくていいさ。ボール拾いがちゃんと集めるからさ」


 チルチルはそうか、球団にはボールを集める人が沢山いるんだと感心した。だったら安心して遠くへ飛ばせる。チルチルはティーにボールを置くと、素振りもせずにいきなり打った。


「うわっ」

 フナサカは驚きの声を上げた。


 ボールはポールの上を越え、はるか場外の草地へと消えていった。


「ああ、確かに、あそこまで飛んだらボールは見付からないわねえ」

 ママ・ティナもまさか、ボールが球場の外まで飛び出るとは思わなかった。


 フナサカは五回ほどチルチルに打たせたが、ボールは全て球場の場外へと消えていった。気が付くと、球場中の選手、コーチ、関係者が全員、チルチルの練習を呆然と見ていた。プロ野球選手としてスカウトされた野球エリートたち全員が、見たことのない打球にあっけに取られていた。  


 フナサカはチルチルのバットを取り上げ、何か仕掛けがあるのではないかと確認した。しかし、それは球団が至急した何の変哲もないバットだった。フナサカは球場のフェンスの外を見回したが、幸いにも新聞記者や観客はいなかった。こんな馬鹿げた打球が、ニュースになっては困る。フナサカはまたチルチルを室内練習場に連れていくことにした。


 練習場にはマシンだけだけではなく、バッティングピッチャーがいた。先にいた選手がピッチャーの投げた球を打っていた。チルチルは早く人の投げたボールを打ってみたいと思ったが、チルチルが入れられたのは、ピッチングマシンの置かれた打席だった。打球が交錯しないようネットで囲まれているので、思いきり飛ばそうとしても、結局ネットに遮られて、どれだけ飛んだのかも判らない。だったら、マシンからボールの出る穴を目掛けて打ち返した方が、少なくともコントロールの練習になると思った。


 人間が投げたボールではないが、チルチルは初めて動く硬球のボールを打つことになる。フナサカはスピードを90キロに設定した。小学生でも普通に打てるスピードである。


 確かに常識では考えられない打ち方ではある。普通とは反対向きに、背中をホームベースに向けている。何度か振ってみれば、そのうち当たるようになるんじゃないか。一球目は普通に空振りだろう。フナサカもチルチルの能力をその程度に考えていた。


 マシンの回転するホイールから放たれたボールは、チルチルには良く見えた。回転も縫い目さえもはっきりと分かる。それが縦回転で、ホームベースの上に向って近づいてくる。当たる瞬間のスイングの起動をほぼ水平にし、ボールの中心の僅か数ミリ下を打てば打球は飛行中にわずかに引力の影響を受け、狙い通りにマシンにぶつかるはずである。そして、チルチルはミスすることなく、完璧に狙い通りの打球を飛ばした。


 それは、埼玉の練習場のティーバッティングと同じように、マシンからボールを通すために開けられた枠の中に吸い込まれた。マシンからはカーンという激しい金属音が聞こえ、練習中のバッターとバッティング・ピッチャー全員がマシンとチルチル方を見た。ボールをマシーンに供給していたアルバイトは、打球に驚いて飛びのいた。フナサカはたまげた。


「…どわああ」

 思わず声が出た。ともかく、普通にほめる言葉も思い浮かばなかった。科学的にはあり得ないことだが、打球が定規で引いた線のように、一直線に飛んだように見えた。野球をするのは初めてだと聞いていたのは嘘だったのだろうかと、フナサカは混乱した。もう一球90キロの球がストライクゾーンのやや低めに来た。これはややバットがすくい上げる軌道になるのを、チルチルの体は瞬時に判断した。同じようにバットの破壊音の後、ボールはまたピッチングマシンを直撃し、金属音とボールをマシンに供給する職員の悲鳴が練習場に響いた。


 チルチルは、手元におかしな感触があり気になってバットを見た。


「あっ」

 なんとグリップのところにひびが入っていた。チルチルはバットを壊してしまい、大変なことをしてしまったと気が動転した。もしかしたら、ものすごく叱られるか、或いは罰を受けるかもしれないとドキドキした。しかも、まさかバットが折れるものとは思わなかったので、予備のバットは全部家に置いて来たのだった。


 フナサカは、チルチルが一本しかバットを持ってないのを知ると、さすがに不機嫌な顔になり、ママ・ティナに「バットを一本しか持ってこない奴がいるか。必ず三本はもってこさせろと」と文句を言った。


 チルチルは練習で、バットのどこで打ってもいいわけでなく、バットの「芯」と呼ばれる一番反発力の多い位置にボールぶつければ、打球も最速化し、しかも折れることはないと、野球に詳しいママ・ティナに教わった。


 翌日、チルチルは自信満々で、代わりのバットを三本持ってきた。コーチはピッチングマシンのスピードを120キロに上げさせた。少年野球の投手くらいのボールだ。さすがにこの辺のスピードになると、全くの初心者では対応ができないはずである。


 チルチルは新しいバットを一回振ってみると、大体の重さとバランスが把握できた。バット自体にそんなに差はなかった。バッターボックスで、背中をベースに向け、チルチル独特のフォームで構えてボールを待つ。ボールが投げられる瞬間、打席で回転しバットにスピードを与える。そしてベースを横切る瞬間最高速に達したバットは、ボールの中心に激突した。打球はまた正確にマシンへと打ち返される。ボールを補給する係の職員は、マシンの後ろでヘルメットをかぶり地面に伏せていた。


 チルチルの打撃は、マシンより正確に、目標点にボールを飛ばすことができた。フナサカは、魔術を見ている気分になって、ついにはチルチルに拍手をした。

 




 

 


 



 

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