第11話 チルチル7 -室内練習場へGO!-

 チルチルは、マンションへ引っ越しして、ようやく近くの練習場に行くように指示を受けた。これで本当の野球に一歩近づいたと、チルチルはうれしかった。


 一方、マスコミは、チルチルがキャンプに顔を出さないので、きっと野球などまじめにさせるつもりはなく、入団は話題作りのためのネタだと確信し始めた。化けの皮が剥がれるのは、時間の問題だと、チルチルの露出もどんどん減っていった。


 練習場は、想像していた野球場ではなく、屋内で、バットが振れるところはネットの中にあり、ピッチャーはおらず、別のネットの仕切りの向こう側にバッティングマシンだけが置かれていた。選手たちは、一軍も二軍も皆キャンプに出掛けており、練習場のバッティングマシンも、メンテナンス中だった。チルチルが是非やってみたかった野球の速いボールを打つ練習は、全くできないことが判り、とてもがっかりした。


 監督やコーチは、ちゃんと素振りができるようになるだけで数ヶ月はかかるだろうと考えていた。万一練習試合にでも出して、空振りしひっくり返るようなことでもあれば、スズノスケはちゃんとコーチしているのかと怒り狂うに違いない。夏までには、せめて野球の打撃らしいスイングができるまでには、素振りを上達させなければならないだろう。まさかチルチルが、本気で、プロのスピードでの打撃練習をやりたいと考えているとは、夢にも思っていなかった。


 チルチルは、誰もいない練習場の右バッターボックスに、ウインドブレーカーを着たまま立つ。普通のバッターとは全く反対に、つま先はホームベースの反対側を向き、体だけは大きく捻り、視線はピッチャーの方を見る。そして右足をけり出すと左足を軸に体全体も回転しながらバットを振る。その音にママ・ティナはバッターボックスに竜巻が起きたと思った。


 ボールも打てなくても、全力でバットを振るのは楽しかった。久しく全力で振っていなかったので、ジャングルで石を打っていた時よりは体の回転が少し遅い気はした。でも、千回も振れば元に戻るだろう。チルチルは動かないバッティング・マシンの前に、架空のピッチャーを想像する。想像のピッチャーにビデオで見た野球のボールを重ね合わせて、バットが届くゾーンを横切るその瞬間を目掛けて、一点でとらえる。想像の打球はネットを突き破り、遥か彼方へ飛んでいく。チルチルは素振りですら楽しかった。本物の野球はもっと楽しいに違いない。


 二軍打撃コーチ補佐のヌマミズという男が、遅れてやって来た。本来は二軍に打撃コーチは二人もいらなかったのだが、このヌマミズというばくちの好きな男は、選手時代にスズノスケの誘いで一度麻雀メンバーに入れられ、そこで役満を振り込んで気に入られ、球団のコーチとして残った。


 ヌマミズはインフルエンザを患い、キャンプから締め出されて療養していたが、取りあえずチルチルを見てこいという指示を、サギザワ監督から受けていた。


 二軍コーチからの「まだまだ選手としては使い物になりません」という当たり前の連絡も、二軍コーチの評価としてならば、正々堂々とオーナーに報告できるという作戦だった。


 サギザワの野郎は俺を盾にしようとしているのかと、内心は少しムカついていたが、勿論監督に歯向かうわけにはいかない。ヌマミズコーチは「判りました」と返事をし、まだ薬でフラフラするのを我慢して、練習場に現れた。


 打撃練習場に入ると、確かにバッターボックスには小さな少女がいて、その後ろにぽっちゃりした通訳を見付けた。マシンすら動いていない。これではスローボールを空振りする様子さえ拝めない。準備運動でも観察しろというのだろうか。仕方ないので十分ほど素振りさせてから、自分は帰ろうかと考えた。


 チルチルはヌマミズに気が付き、ママ・ティナに聞いた。

「あの人は何者」

「ああ、バッティング・コーチだよ。あんたの凄いスイングを見せつけてやりなよ」


 ママ・ティナはヌマミズに向って手を振った。「グッド・モーニング」と大きな声で挨拶した。


 プロ野球の練習場のバッティングケージの中に、野球をやったことのない外国人の女が二人いて、バットを持っている。ここはひょっとして異次元空間ではないか、とさえ、ヌマミズは思った。少なくとも命がけで何年も野球をやり、その中で選ばれてこの世界に拾い上げられた者だけが、あの中に入れたはずだ。ヌマミズは馬鹿馬鹿しくなったが、取りあえずケージに近付いた。


「さあ、チルチル。一発見せつけてやんな」


 チルチルはいつものように打席に入ると、普通の打者とは反対に、ホームベースとは反対方向につま先を向けて立った。ヌマミズはこけそうになった。もはやこれは素振りですらない。創作ダンスかよ。


 次の瞬間チルチルは左足を軸にして体ごと半回転し、その回転の勢いを伸びた腕からバットに伝え、柔らかな手首の先でバットは更に加速していく。


 シューン。


 その音はヌマミズも聞いたことがなかった。大物打ちのメジャーリーガーやホームラン王、ヌマミズも自分の現役時代から何人もの長距離打者を見ていた。しかし、ブンという力強い風の音は聞いたことがあったが、空気を切り裂くような音は初めて聞いた。バットの通った後に真空の道が出来ているのではないかと思えた。


 確かにスイングはとんでもなく速い。ヌマミズもプロ野球のコーチなので、スイングスピードの凄さはすぐに判る。確かにこんな小さな女の子がこれほどスピードでバットを振るのは、信じられない。ただ残念ながら、プロのピッチャーのボールを打てなければ、スイングの速さだけでは野球選手としては意味がない。


 チルチルとママ・ティナはスイングの後ヌマミズの顔を見た。ただでさえ日本人の喜怒哀楽は判りづらいのに、微妙な表情のまま固まっているので、何を思っているのだろうかと、二人で顔を見合わせた。


 もう一回バットを振る。同じように切り裂くような冷たい音が聞こえた。確かに速い。ヌマミズは二回目の素振りでもその速さを確認した。三回、四回とチルチルは素振りを続ける。ヌマミズはコマの回転の軸に当たる、チルチルの左足がいつも微動だにしないのを見た。姿勢、体重移動、そしてスイングの後のバットの停止する位置。その全てが毎回同じで変わらない。これは、なかなかできるものではない。きっと何万回という練習で、この不思議なスイングを体に染みつけたに違いない。その努力はうちの二軍にいる何人かの怠け者の選手も、見慣うべきかもしれない。


 あの子の回転が生み出すスイングが、どのくらいの強い打球を打ち出すのか、一度見てみたい気はした。投げた球を打つのは無理でも、ティ・バッティングくらいは何回かやればちゃんと当たるに違いないと。ヌマミズは考えた。


 ヌマミズは練習場に転がっていたティーバッティングのスタンドを拾い、ボールかごをマシンの横から持って来ると、ママ・ティナに声を掛け、一旦素振りを止めさせた。


「この上にボールをのっけて打ってみなよ」

 ヌマミズは、ティースタンドを、ケージのホームベースの上に置き、ボールをセットした。


 チルチルは、静止したボールを打つ練習をやらされることに驚いた。そんなのものは自分で石を投げ上げて打つよりも百倍は簡単で、目を瞑っていても当たる。何か特別な意味でもあるのか、或いは馬鹿にしているのか、逆に問いただしたくなったが、コーチに口答えして、部屋から追い出されたらたまったものではないので、真面目にやることにした。


「どこを狙って打てばいいの?」

 ママ・ティナを通じてヌマミズに聞かせると、「そうだねえ。取りあえず、あのピッチングマシン目掛けて打ってよ」とぞんざいな答えが返ってきた。


 ヌマミズは、チルチルがいきなりボールに当てられるはずがないと思っていた。ティー・スタンドは、ボールを乗せる部分が柔らかいゴムでできているので、チルチルが激しく打ち損じしたとしても、手首のけがをすることもなかろう。きっと最初はボールに当てることさえおぼつかないだろうと、考えていた。


 ピッチングマシンに向けて打つとは、なるほど、これは確かに練習にはなると、チルチルは思った。マシンとバッターボックスを並べるバッティング・レーンは、それぞれが、ネットで区切られており、決して打球が窓を壊したり、壁や天井に跳ね返って、誰かを直撃するようなことがないように出来ている。マシンの前にもネットが置かれ、丁度ボールが出てくるところだけが、四角い穴が開いている。つまり、マシンにボールを届かせるには、その穴を狙って打つしかない。


 チルチルは、何度か素振りをしながら、イメージトレーニングをした。今のところ、野球のボールの反発や回転による変化が判らない。だったらできるだけ回転を減らし、ボールの中心点を打ち抜いた方が安全だ。落下率は判らないが、あのマシンまでの距離なら石の軌道とさほど変わらないだろう。


 チルチルは縫い目がバットに当たらないようにボールをセットし、バッターボックスに入った。ヌマミズは素人が初めてボールを打つとどんなおかしなことが起きるのかと、少しワクワクした。


 チルチルが素振りと同じように最初は背中をボールに向け、半回転しながらスイングする。空気を切り裂く音と硬い金属音が響いた。打球は一直線でピッチングマシンの前に開いた小さな穴に飛び込んだ。ボールはマシンのモーターのカバーに当たると、ネットの裏側の壁で何度か跳ねて、マシンの脇に転がった。


 ヌマミズは声を出あげることもできなかった。




 



 


 

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