第9話 チルチル6 ー野球を勉強するー

 チルチルが次の日にやる事は、マンション選びだった。ホテルにやって来た球団職員から、いろんな物件を見せられたが、何がいいのやらチルチルに判るわけがなかった。


「とにかく自動車に乗らずに済むなら、どこでもいい」

「チルチル、野球選手はね、日本中を動き回るのよ。だから、飛行機も電車も車も乗らなきゃいけないの」


 チルチルは驚いた。野球場というのは一つしかなくて、いつも同じ場所で試合をするものだと思っていた。まさか日本中に野球場が何か所もあって、毎日自動車や飛行機に乗る仕事だとは考えてもいなかった。


「大丈夫よ。そんなの一か月もあればすぐになれるわ」


 また、ママ・ティナが笑いながら肩を叩くので、チルチルは今日もびっくりした。


 ママ・ティナは不動産物件の案内を並べて、比べ始めた。


「あんまり球場の近くはファンやマスコミが嗅ぎつけちゃうかもしれないしね。近くにはスーパーや映画館もあった方がいいわ。中華とベトナム料理の店は必須ね。このフィットネスクラブはスパとサウナが充実してる」


 ママ・ティナはまるで自分の家を選ぶのと勘違いしたように、不動産屋から来た資料を吟味した。結局二時間ほどかけて、ママ・ティナが独断でJR埼京線沿線にあるマンションに決めてしまった。引っ越しの準備ができるまで、暫くはホテル暮らしが続くのは少し窮屈な気がした。新聞記者やカメラマンがうろうろしているので、絶対に一人では外に出るなときつく言われた。それでも新聞記者やカメラマンも、棒でお尻を叩く学校の先生よりはましだろうという気はした。


 球団の職員が、ホテルにやって来た。いろんな準備があった。まずやらなければいけないのは、ユニフォームの採寸だった。日本人の女の子に混じっても小柄なチルチルに合うユニフォームの型紙などあるわけがなく、特注で作るしかなかった。


 午後になると、ブルーレイのプレイヤーが部屋に持ち込まれ、スコアラーの一人がやって来た。チルチルが何事かと見ていると、どうやら野球のルールの勉強だった。フジタからの話と漫画で、チルチルも野球をふんわりとは知っていたが、ルールブックを読んだわけではなく、詳しい規則は知らなかった。


「とにかく、試合を見ながら説明聞くのが一番いいか」


 球団から派遣されたスコアラーは、ブルーレイの機械を持って来て、去年のドルフィンズの試合を最初から映した。スコアラーも監督に言われ、ホテルに来る前は、なんて馬鹿馬鹿しい仕事をやらされるんだと思っていたが、小麦色のチルチルを見たら、これはこれで楽しい仕事かもしれないと思えた。


 ママ・ティナは実は大の野球ファンだった。三振やホームランだけでなく、インフィールドフライや守備妨害までちゃんと説明できた。野球への深い理解が、ママ・ティナが通訳に選ばれた大きな理由だった。


 チルチルは最初の一回の攻撃は楽しく見た。これが本物の野球なのだと、感激した。グラウンドは整備され、人工芝の緑は美しい。それに何万もの観衆。こんなに多くの人が野球を知っている。


 一回裏の守備になると今度は驚きと困惑があった。野球は打つだけでなく、打った後には守らなければならない、しかも打たれた球を取って投げなければならない。チルチルは何万個もの石を打ってはいたが、誰かに物を投げたことはなかった。これはマジでヤバいと、心臓がどきどきした。


 三回になると、今度は様々なルールで困惑した。ファールはストライクになるが、ツーストライクの後はストライク・アウトにならない。ただバントの時だけは三振になるらしい。打った球が地面にバウンドした時はランナーは次の塁に走ってもいいが、ノーバウンドで取られた時は、取られた後からしか次の塁に進めない。チルチルの頭は段々混乱して、冷や汗が出てきた。学校でもっと真面目に勉強していていれば、簡単に判ったのだろうか。段々とスコアラーの説明が、頭に入らなくなってきた。


 四回になると、もう野球の試合を見続けるのも飽きて、苦痛になる。九回の試合終了まで見終わると、意識がどこかへ飛んでいた。まさか野球が三時間も続くものだとは夢にも思わなかった。最後に判ったのは、後攻のチームが九回の守備が終わって勝っていれば、その次の攻撃をしなくてもいいということだった。九回の裏を見ずにすんで、ちょっと嬉しかった。


 ともかく一つ判ったことは、野球というのは想像以上に大変な作業だということだった。何しろボールを投げたことがないという最大の問題もある。打つのは簡単そうに見えたが、守るのはどのポジションをやるにしても、絶対に無理だと思った。


「あのお、私、ボールを取ったこともないし、投げたこともないんだけど」

 スコアラーは、頷いてから、なぜか得意げな顔つきになり言った。

「大丈夫。君は打つだけだ。あなたが守備をすることは絶対にない。DHは守らなくていい」


 そう言えば、守備をしなくてもいい選手が一人いたと、チルチルは少し安心した。それでも野球の複雑さはハードルが高いと難しい顔をしていると、また突然にママ・ティナに肩を叩かれ驚いた。


「チルチル。大丈夫よ。全部ホームランを打てば何も考えることはないわ。ただ歩いてダイヤモンドを一周して帰って来るだけ」


 ホテルでは、延々と野球のビデオを流し続けた。さすがに同じ試合の七回目が見終わると、次に何が起こるのかさえ分かってしまうので、まじめに見る気もなくなった。ただ6回の裏、大きな白人選手が外野を抜けるヒットを打った後、二塁をオーバーランして慌てて戻ろうとした時、転んで顔が泥だらけになる。そのおかしなシーンが楽しみで、見事に転んだ瞬間に、毎回ママ・ティナと二人で声を上げて笑った。


 夕方になると、仕上がったユニフォームのサンプルがホテルに届けられた。早速試着した。初めて着るユニフォームにワクワクした。確かに自分はプロの野球選手になった。ただ、まだ一度も野球をしたことがないだけなのだ。


 チルチルよりも、ママ・ティナの方が、はしゃいだ。チルチルに着させると、モデルのようにポーズを付けさせて、「素敵素敵」と手を叩いてはしゃいだ。ホームチーム用の白いユニフォームと、ビジター用ブルーのユニフォーム。どちらもいかしてると思ったが、自分は白の方がいいと思った。背番号に「100」と三つの数字が入っていた。100%ホームランを打つという意味が込められているらしかった。自分の好きな「3」や「7」の方がよかったと、チルチルは思った。そして、普通の丈のパンツと、ショート・パンツの二種類が用意されていた。どちらを着てもいいとのことだった。ショートパンツは、スズノスケが日本野球機構に話を付けて認めさせていた。


「チルチルは、どっちがいい?」

 ママ・ティナに聞かれて考えると、バッティングで左足を軸に半周回転するときに、確かにユニフォームがゴワゴワしていたりしたら気が散るかもしれないと思い、「こっち」と、ショートパンツの方を指さした。

「あらあ、日本中の男虜にする気かい」


 ママ・ティナがチリチルの肩を叩いて大笑いすると、チルチルは男の子の視線など考えてもいなかったので、顔が赤くなった。


 あっという間に夜になり、また一日が終わった。ベッドの中でさすがにチルチルも不安になった。自分は野球をするために、恐怖の飛行機に乗って、死ぬ思いをしてはるばる日本までやって来たはずなのに、まだボールすら打っていない。


 朝、ママ・ティナ に見付からないように、こっそりベッドから出て、ユニフォームに着替えバットを持って、ホテルの玄関を出た。まだ人通りは少ない。


 チルチルはジャングルにいた時のようにうまく打てるか不安だった。まして初めて握る本物のバット。勿論凸凹のないボールは、石よりも簡単に打てるには違いないとチルチルは思っていた、ただし、体自体が思うように動かなければ、どれだけ目が良くても意味がない。チルチルは歩道に出ると、左足を軸にして半周回転する彼女の産み出した打法で、バットを振り始めた。時々、通勤やジョギングの通行人が驚いてチルチルを避けて歩いていく。


 初めてバットを全力で振るのは気持ちよかった。思いの外、回転の力も落ちてない。後はタイミングを調整がうまくできれば大丈夫だろう。結果は、実際に投げられたボールを打ってみないと判らない。


「何やってんの」

 ホテルから、ママ・ティナと一人の従業員が血相を変えて飛び出してきた。

「あんた駄目じゃない。道でバットなんか振り回したら、警察に捕まるわよ」

 ママ・ティナはTシャツにショートパンツというチルチルの格好を見て、また腕組みして目を吊り上げた。

「それに日本はテレビや新聞のカメラマンだけでなく、おかしな変態オヤジも沢山いるのよ。誘拐でもされたらどうするの?もう、勝手に外に出てっちゃダメ」


 ママ・ティナは、チルチルの腕を引っ張って、ホテルの部屋に引き戻した。


 外に出ることさえもままならないとは。チルチルは、これは本当に面倒なところへ来てしまったと、また憂鬱になった。

 

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