第8話 チルチル5 ー野球のある国ー

 チルチルを乗せた機体が加速し浮き上がる。楽しみにしていた飛行機という乗り物は、とんでもないものだと判った。床が抜ければ地面に落っこちてしまうのだ。窓が開いて強い風が吹けば外へ飛び出してしまうかもしれない。そう考えると、チルチルには旅の楽しみはなく、恐怖しかなかった。窓側の席などにしなければよかったと、ひどく後悔した。


 すぐに日よけを閉めた。座席の前にある画面を操作するとアニメも見られると、通訳が教えてくれたが、結局何を言ってるか判らないので、つまらくなって見るのを止めた。ちゃんと着陸できるのかと、ドキドキしながら座席でじっとしていた。成田空港に着陸した時は、とにかく地面に帰って来られてよかったと思った。


 空港での入国の手続きも、何が何だかよくわからなかった。検査官の女性に鋭い目でにらまれた上に、写真とビザのページをじろじろ見られ、何か面倒なことが起きないかとドキドキした。空港の到着ロビーに出た時には、すでに緊張でへとへとになって、やっぱりこんなところへ来なければよかったと後悔した。


 通訳とロビーに出るとそこには、沢山のカメラマンが新聞記者がいて、驚いた。何事かと思うと、どうやら注目されているのは自分だと判った。16歳の野球の経験のない外国人少女が、選手として契約されたと、日本では大きなニュースになっていたのだった。


「ハイ。チルチル」


 丸い顔をして、太った体つきの三十歳位の、南国のカーニバルに合いそうなカラフルな服を着た女性が、チルチルの手首を握って引っ張った。雇われたボディガードがチルチルとこの女性を囲んで、カメラマンややじうまから守って歩く。


 手を引く女性を見て、きっと同じように南の国から来た人だとチルチルは思った。しかも自分に判る言葉をしゃべる。


「チルチル。私はティナ。あなたの世話係よ。ママ・ティナでいいわ」


 チルチルの通訳の仕事は、現地から同行した代理店の男から、ママ・ティナに引き継がれた。ママ・ティナは、チルチルの故郷の隣りの島から、ダンサーとして日本にやって来た。サンバのサークルで、大学教授と知り合い結婚したが、二年で離婚した。その後ダンサーをしながら東南アジア風創作料理の店で働いていた。時々、通訳のアルバイトもしていた。丁度、スズノスケたちが、チルチルの通訳を探しているのを知り、売り込みに成功したのだった。ママ・ティナはチルチルの通訳兼お世話係として雇われた。


 ママ・ティナは実際にはママではなかったが、ふくよかな体と、何でも笑い飛ばすような豪快な性格から、若いダンサーの子たちからママとかママ・ティナとか呼ばれていた。


 チルチルの島とほぼ同じ言葉を話すママ・ティナが、一緒に住んで面倒を見てくれるということで、チルチルはとても安心した。ママ・ティナは朗らかで、大人なのに、小学校の数学の先生のように怖くはないのでうれしかった。


 成田空港からは、球団が用意したリムジンに乗せられた。結果的にリムジンは飛行機より百倍厄介なのが判った。空港を出て暫くは森の風景が続いた。そこまではまだよかった。段々と町や家が多く見えてきた頃には、チルチルは随分と気分が悪くなっていた。チルチルはバスやトラックの荷台以外に、自動車には乗ったことがなく、長くリムジンに乗っていると、ひどい車酔いになり、高速道路で車から飛び降りたくなった。東京に入り、高層ビルが沢山見え始めても、ただただ気持ちが悪いのを耐えるだけで、感激も感動も何もなかった。ママ・ティナも大丈夫かと肩に手を乗せ、何度か声を掛けてくれたが、反対に放っておいてほしいと思った。


 限界に近付いたところで、なんとかホテルのロビーに着いた。車から出て外の冷たい風に当たると、かなり気持ち悪さは収まった。ただ今度は体験したことのない寒さに身震いした。島を出る前にも、日本は寒いところだと聞いてはいたが、二月の東京は想像を絶する寒さだった。


 これからも毎日あの不愉快な自動車に乗らなければいけないのだろうか。車ではなく、馬でもあてがってもらえないだろうか。そして、せめて野球をするのは、暖かい夏まで待ってもらえないだろうか。もし、自動車と寒さがずっと続くなら、日本は地獄のようなところだと思った。かと言って、家族は大金をもらってるので、ここで自分が逃げ出したら、きっと草刈り機もお金も取り上げられてしまうに違いないと思い、我慢して頑張るしかないと、あきらめるしかなかった。


 当面一緒に住むママ・ティナと用意されたホテルのスイートルームに入った。大きな部屋で、しかも絨毯張りになっていて驚いた。部屋には球団からプレゼントされた木のバットが数本置かれていた。確かに漫画で見たバットと同じ形をしている。多少の長さや重さの違いがあったが、チルチルにとっては、大した問題ではないと思った。それよりも硬い木が均一に削られ、バットの先から見ると完全な円の形をしており、しかも表面はすべすべしている。頬を当てると気持ちよかった。


「好きなの選べってさ。それをチームが何本か用意してくれるってさ」

 ママ・ティナがバットと一緒に置かれた紙を読んだ。

「何がいいかなんかわからない。だって今日本物見るのが初めてだもん」

「そりゃ、そだよねえ」


 ママ・ティナはティナの肩を叩いた。それは彼女の癖であり、叩かれたチルチルはたいそうびっくりしたので、この癖はもう止めてほしいと思った。


 夜になって、歓迎のディナーが催された。チルチルはパーティ用スーツなど持っていなかった。そもそもチルチルの島には冬が無いので、セーターなどの冬物すら持っていなかった。Tシャツに紺色のデニムのパンツと、部屋にあったバスロブを着て出て行こうとしたら、ママティナに止められた。ママティナは、考えて、自分のだぶだぶのワンピースを着せ、ウエストのところをマフラーで縛った。。


「まあ、パーティっていう感じじゃないけど、同窓会にやって来た学生くらいには見えるか」


 きらびやかなシャンデリアが幾つも付けられたホテルのボウルルームで、長いテーブルが置かれ、パーティが準備されていた。パーティ会場はやたらに大きく、部屋の中で学校の子供たち全員が住めるに違いない。もし、それができたら楽しいだろうと、チルチルは故郷を思い出し、少し悲しくなった。


 ジャングルで見たスズノスケが、王様のように部下を沢山従えて会場に入って来たので、とても奇妙な感じがした。その後、監督だ、バッティングコーチだ、何とかだとが次々と紹介されたが、日本人のおじさんは全て同じ顔に見えて、名前と顔が全く覚えられなかった。ただ監督と呼ばれる男は、何だか困ったような、決して楽しそうではない顔をずっとしているのが印象に残った。日本では、食事に来たお客さんにもにこやかにしないのかと、少し不思議に思った。


 パーティで、次から次へと綺麗な皿で出される料理は、チルチルには決して美味しい物ではなかった。「箸」とかいう二本の棒は、とても使いこなせるとは思えなかった。全部、スプーンとフォークで食べたが、不思議そうにじろじろ見られて恥ずかしかった。料理の中でも特に生の魚はいただけない。さすがに気味が悪くて、手を付けられなかった。まさか毎日生の魚を飛べさせられるのかと、ママ・ティナに聞く。


「安心しなよ。そんなもん毎日食べないから。まあ、生の魚も慣れればおいしくなるよ」


 ママ・ティナの言葉に少しホッとしたが、自分が生の魚に慣れることはないだろうと思った。 


 緊張してわけがわからないうちにパーティは終わった。スズノスケが出て行くと、残ったおじさん達の顔が急に楽しそうになり、みんなでワイワイガヤガヤ騒ぎ始め、その後、チルチルとママ・ティナを会場に残して、つるんで出て行った。


 訳の分からない長い長い最初の一日が終わり、部屋に帰るとくたくたになった。部屋の中でシャワールームが綺麗なのは、とても嬉しかった。ちょっとだけお姫様の気分になった。ママ・ティナも同じ部屋のベッドで寝てくれるらしく、安心した。こんな大きな部屋で一人で寝るのは、寂しさに耐えられないと思った。


 ベッドの中にぬいぐるみの代わりにバットを入れ、一緒に寝ることにした。島にいた時は、クマのぬいぐるみが外のお化けから守ってくれる気がした。バットは自分を助けてくれるだろうか。


 チルチルはベッドでいろいろ考えていると、急に眠くなった。


 









 


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