第4話 チルチルとフジタ2 -グラウンドに帰る-
チルチルは、「YAKYUU」を知るためには、どうしてもフジタの話す言葉と、あの奇妙な文字を読めなければだめだと思った。
面倒くさがるフジタにしつこく付きまとうと、フジタは渋々チルチルに日本の言葉と文字を教え始めた。チルチルは学校の勉強より熱心に、日本語を習った。勿論、フジタも日本を離れて長い時間が経っているので、文法や正しい字の書き順を教えられるわけではなく、たまには適当なことを言ったり、間違えたことを教えたりした。それでも真剣なチルチルは、若くて音感が良かったこともあり、段々と日本語を覚えていった。ただ漢字を覚えるのはあきらめた。何しろ種類が多すぎる。平仮名も「い」や「う」は簡単に覚えられたが、「あ」や「お」は難しかった。
学校の宿題も放ったらかして、フジタの元に駆けて、おかしな言葉を割り算以上に熱心に勉強するチルチルに、母親のアンは、時々小言を言ったが、ジョシュアは「好きにすればいいさ」と言った。
そして、言葉を覚えるのと同時に、少しずつ「やきゅう」のことが判ってきた。漫画の意味も判るようになっていく。「やきゅう」は9人対9人で争うゲームだった。点を沢山取った方が勝つ。攻撃と守備を順番に9回行う。自分が島で野球をやることはないだろうとチルチルは思う。でも世界にどこかで、大きなグラウンドで「やきゅう」が行われているのを想像すると、とても幸せな気分になった。
フジタは、年をとったので、自分でバットを振ったり、ボールを投げたりすることはなくなった。ボールもチルチルが自分で縫った。もはや一人だけの生徒となったチルチルが、コマのように半回転して、自分で作ったボールを友達に投げさせて打ち、遠くへ消えていくのを見ているだけだった。そしてもはやフジタがなめし皮も作らなくなると、チルチルはボールの代わりに石を打った。石を打つのは難しかった。石はいびつな形をしているので、中心のやや下を打てばいいボールと違って、狙いすました一点をバットの芯に当てなければならない。チルチルはフジタから日本語を教わった後に、何十個も石を打った。手製のバットが削れていくと、何本も椰子の木を切ってもらうわけにはいかないので、バットを削って細くしていく。そのバットが折れてから、今度は父親に頼んで、木を削り、磨いてもらい、新しいバットを作る。
チルチルの打撃は、日々目覚ましい進歩を見せた。勿論、男の子ような筋力はなかったが、つま先の支点を中心に加速する回転と、ゴムのような柔軟性で、体自体がばねのようになり、空気を切り裂くような音が出るほどのスピードをバットに与えた。そして何よりも、神様はチルチルに唯一無二のプレゼントを与えていた。チルチルは自分が回転しながらも、打つべき石の大きさ、形状、位置、動き、を一瞬で完璧に把握した。チルチルのバットは、たとえ石自体が空中で回転していても、遠くへ飛ばすための一点を確実にとらえた。鷹の目と、バットを使って狙った獲物を捕らえる爪が、チルチルへの最高のギフトだった。
最後にすごいものが見られたと、フジタは満足だった。
船に乗り日本を出てから、ついにグラウンドに立つことはなかった。日本は一体どうなっているのだろうか。あんな戦争に勝てるわけがない。自分の村でも野球はまだ行われているのだろうか。世界のどこかで、野球は続いていくに違いない。野球がある限り、この子はいつか野球に辿り着くはずだ。いや野球が彼女を捕まえに来るだろう。
フジタはチルチルを見た。多分、この子はきっと野球の神様の化身なのだ。たまたま野球の無い島に生まれてしまっただけだ。自分の終わりに、野球の面影を見せてくれた。神様には感謝するしかない。フジタが目を閉じると、チルチルが大観衆の中、ホームランを打つ姿が浮かんだ。
フジタは自分の体のことを判っていた。そこは誰もがたどり着くところで、その時は近いようだ。辛いことを我慢するのはやめようと思った。抗わずに流されるのがよかろう。
チルチルは学校から帰ると、いつものように家で宿題をするふりを三十分ほどしてから、フジタの小屋に駆け足で向かっていた。学校から帰る途中に、バットを最初はゆるく握り、打つ瞬間に力を入れた方が、瞬間にバットのスピードが加速するのではないかと、直感で思い付き、早速試してみようと思った。
チルチルがいつものように、フジタの小屋の前で大声で呼んでも、フジタは出てこなかった。最近は少し耳が遠いので、更に大きな声で呼んでみたが、フジタは出てこない。仕方なくチルチルは扉を開けて中をのぞいた。普段は、扉を勝手に開けると、フジタも嫌な顔をするのだが、全然返事が無いので、仕方ないと思った。
中には誰もいなかった。毛布も畳まれ、中は綺麗に整頓されていた。いつも適当に置かれている皿やハサミやろうそくなどが、机の上から全て消えていた。二十分ほど待ったが、フジタは帰って来なかった。川の方にも姿は見えなかったし、もしかして、木でも切りに行ったかと、森の中に少し入ったが姿はフジタの姿はない。遠くに山猫のような動物が見えたので、怖くなって逃げた。とりあえずその日は家に帰った。つまらない一日になったと、チルチルはがっかりした。がっかりしたと同時に、なぜだかとても不安な気持ちになった。
次の日もフジタはいなかった。家の前で一時間待ったが、帰って来なかった。その次の日は土曜で学校が休みだったので、チルチルは朝からフジタを見に行った。神様に願いながら行った河原の小屋には、やはり誰もいなかった。前の日に目印に置いた笹船も、全く動かずに同じ場所にあった。とても怖いことが起こった気がして、チルチルは泣きながら家に帰ると、ジョシュアとアンを呼んで、「フジタが消えたから一緒に見に来て」と言った。アンは釣りでも行ったんじゃないのと取り合わなかったが、ジョシュアはチルチルがあまりにも泣くので、一緒に森の中に行った。
河原の小屋は相変わらずもぬけの殻で、人の気配はなかった。食べ物も洋服も何も残されていなかった。ジョシュアにはその意味が判った。まるで最期の姿を見せないカラスのようだ。チルチルの島では、カラスは神様の使いと言われていた。
「フジタのじいさんはね、日本に帰ったんだ」
「ええっ。帰っちゃったの」
「そう、家族が呼びに来たから帰ったんだ。きっと飛行機に乗るのに慌ててたんだ」
「もう会えないの?」
「会えるかもしれないし、会えないかもしれない。いつかお前が日本に行けば会えるかもしれない」
チルチルは寂しかった。もうフジタには会えないのか。
「うん、いつか日本に行く」
ジョシュアは、チルチルに黙って、昔からの知り合いを何人か集めて、森の中、河原、そして川の仲間まで日が暮れるまで探したが、フジタは見付からなかった。ジョシュアは最後に仲間を集めて、フジタのいた小屋の前で踊りを踊った。それは、神様にお願いをする島の踊りだった。フジタが幸せな場所へ行けるようにと祈りながら、ジョシュアたちは踊った。
その夜、チルチルは夢を見た。チルチルの目の前に扉があった。フジタに「行け」と押される。実際に誰かの手が触れたわけでもないのに、確かに押される感覚があった。チルチルが扉を開けると、そこには大きな空間があった。遠くに九人がいた。それは自分が今から闘う敵だ。敵なのに憎くはない。敵の一人の少年がボールを投げ、チルチルは打った。打球が向かう空は青く、白い雲が浮かんでいる。これは野球のグラウンドなのか。そこでチルチルは目が覚めた。
ボールを投げた少年は、きっとフジタだ。そうか、フジタはグラウンドという故郷に帰ったんだと、チルチルは思った。
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