第3話 チルチルとフジタ -YAKYUU?- 

 チルチルの父、ジョシュア・マネは、フジタに教わった球を棒で打つ不思議な遊びのおかげで、腕や背中の筋肉が鍛えられ、それは毎日の仕事にも役立った。他の猟師よりも強い弓が引けた。動体視力も発達し、鹿が走る時の四本の脚の動きも良く見えた。


 ジョシュアは森で、電気も引かず、芋を植え、魚を獲りながら暮らすフジタ老人を、師匠だと思った。自分に子供ができても、かならずフジタに野球を学ばせようと考えた。島で生きていく上で、フジタの遊びは役に立つと信じたからだ。


 ジョシュアの四人の子供たちがある程度大きくなると、順番にフジタのところへ連れて行った。もう年老いたフジタのところへ来る子供たちは、少なくなっていた。確かにもう速い球をを投げたり、森の向こうまでボールを打つことはできなかったが、ジョシュアの子供たちに、椰子の木を切って作ったバットで打つことを、手製のボールで投げることを、教えた。


 四人の子供たちの中で、最も素質があったのが、唯一の女の子であるチルチルだった。勿論力が無いので、石を遠くに投げたりできないし、腕力はないのだが、燕の羽ばたきさえ見逃さない目を持っていた。そして正確にバットの芯をボールに当てる繊細な手があった。


「力ではない。回転のスピードがあり、正しい一点に当てれば、ボールは遠くへ飛んでいく」


 フジタの言葉をチルチルは、実現するすることができた。男の子よりも確実に遠くへ打ち返した。天才的な感覚があった。しかも研究熱心だった。


 チルチルは学校にあるテレビテレビで、フィギュア―スケートを見た。くるくると凄いスピードで回転する選手たち。こうすればいいんだと、チルチルは自分のひらめきにうれしくなった。


 チルチルは、十日間家で棒をもって回転し続けた。夜中まで回り続けるので、「いい加減にしろ」と、母親に叱られた。納得するスイングができると、早速試したくなり、フジタの小屋に行った。


 フジタは、チルチルが丁度ホームベースのあるべき方向に背中を向け、普通とは180度反対の形で立っているのを見て驚いた。ふざけているのかとも思ったが、とりあえずボールを、ホームベースを模した板の方、つまりチルチルの背中側に向って投げた。すると、チルチルは、左足のつま先を軸に、素早く回転した。とてもいい音がして、ボールは高い椰子の木の上に線を引いて消えていった。


 フジタは驚いた。これはまぐれだろうか。いや、そのはずがない。フジタは知っていた。まぐれだけで打てるホームランなど存在しない。そして次に投げたボールが、同じ高い放物線が描くと、フジタは声を上げて笑った。

「こりゃ、凄い」


 それからしばらくしてから、島に小さな空港ができた。いろんな商品が届くようになった。携帯電話は魔法の道具のように思えた。たまに物好きな外人が旅行で島に来ることもあった。そしてごくたまに、冒険好きな変わり者の日本人も島に来た。


 一人の日本の若者がやってきた。世界中の小さな島を撮影する写真家らしかった。どうやらフジタの爺さんと同じ国から来たらしいと、村の人々はざわついたが、若者に日本兵の生き残りがいるということを伝えることはしなかった。フジタが日本に帰ってひどい目にあわないか、心配したからだ。


 珍しい来客を、子供たちは夕日の見える岬や、高床式の家を案内した。日本人の写真家はお礼にとチョコレートと、漫画の本を何冊かプレゼントした。子供たちはみんなで異国の品を分け合った。特に、絵本とも違う漫画には、皆が興味津々で、取りあいになった。チルチルは漫画本の一冊に目を奪われた。表紙にかかれた太った少年が振っているのは、バットに違いなかった。そして白い球を打っている。


 いてもたってもいられなくなったチルチルは、漫画の本の山から、バットを振る少年が表紙の三冊をかき集めると、これは私のだと言って、脇に抱えて、森の中へ駆けていった。

「フジタじいさん、フジタじいさん」


 丁度、魚の干物を作るために、釣った魚を三枚におろしていたフジタ老人は、チルチルの声に振り返った。チルチルはフジタの前に座ると、日本から来た若者からもらった漫画の本を眺めた。フジタは表紙を眺めると、

驚いた顔をして「ほお」と一声上げた。一旦、川で手を洗い、一冊ずつコミックサイズの漫画本を手に取った。


「野球だな」

「YAKYUU?」

 フジタのつぶやきに、チルチルが聞き返す。

「や・きゅ・う」

 フジタは、カラーの表紙で正にバットでボールを捕らえた瞬間の太った少年を指さし、教えた。

「YAKYUU」


 チルチルは、削られ磨かれた木の棒で、丸い球を打つ遊びに名前があるのを知った。チルチルは名前を聞いた瞬間から、YAKYUUのことをもっと深く知りたいと思った。


 フジタは、漫画を声を出して読み始めた。いつもはジェスチャーと片言の島の言葉しか話さないフジタが、不思議な文字を読んで、ちゃんと声に出すのを不思議に思った。後ろから覗き込むチルチルに判るように、バットを指さし言った。


「バット」

「BATTO?」


 チルチルは少し困惑した。この遊びには、YAKYUU以外に別の名前があるのだろうか?また、今度は投手がボールを投げるシーンがあった。手に握られた縫い目のある丸い物を指さし、つぶやく。


「ボール」

「BOOLU?」


 フジタ老人が作る丸い物はBOOLUという名前があるのだろうか?もしかして、BATTOやBOOLUは木の棒や丸い球の名前で、YAKYUUと言うのは、木の棒であの丸い物を打つ動作のことなのだろうか?チルチルは、もっともっと知りたくなった。


 フジタのところから家に帰っても、チルチルは宿題もせずに漫画をずっと読んでいるので、両親からはまた注意された。本を取り上げられて、慌てて宿題を始めるが、YAKYUUのことが気になって、なかなか進まなかった。宿題を終えると、兄弟に見つからないように、漫画をベッドのマットの下に隠した。朝になって普段より早起きすると、家の外に逃げて、物置の裏側に座り、漫画を丁寧に見る。変わった形のぐにゃぐにゃとした文字が書かれている。これがフジタの祖国の言葉だと思うと、何か不思議な気がした。なんで人間はそこいらじゅうで勝手に言葉を作ってしまったのだろうか。不便で仕方がないとチルチルは思った。


 チルチルは三冊の漫画を、謎解きをするように真剣に見る。物語は何も判らなかったが、太った少年が主人公であるのは想像できた。なぜなら一番登場する回数が多かったからだ。それ以外のストーリーは何も判らなかった。何せ、YAKYUU自体がチルチルが想像していたものと、全く違っていた。ボールを投げる人間と打つ人間、二人だけでやるものではなかった。沢山の人間がかかわっているのだった。時には投げていた人間が、反対にバットを振っていたりする。しかも、バットを振る人間は必ず大きな帽子を被っている。主人公の太った少年は、バットを振らない時は、猟ではあまり役に立たなそうな防具を身に付けて、左手には大きな手袋をはめ、不思議なお面を被っている。


 チルチルは訳が分からなくて、とても混乱した。混乱した後に、YAKYUUを更に知りたくなった。


 次の日、学校が終わると、チルチルはまた三冊の本を抱えて、フジタのところに駆けていった。今、チルチルのいる小さな世界で、本当のYAKYUUを知っているのは、フジタだけだった。YAKYUUの秘密を何としてでも聞き出さなくてはいけない。


 小屋の中で、昼寝をしているフジタを、チルチルは怒られるのを覚悟で窓の隙間からのぞいて、大きな声で起こした。フジタは何事かと目を覚まし外に出てきた。チルチルは漫画のページを開いて見せて、主人公の少年が身に付けるマスクと防具を指さした。

「これは、何なの?なんでこんな加工してるの?」


 フジタに何度も問いかけたが、フジタには、そんなややこしい質問が判るわけがなかった。それでもチルチルは諦めなかった。「YAKYUU」「BATTO」「BOOLU」「TE」「ASI」「MIGI」「HIDARI」。チルチルはフジタから聞いたことのある単語を並べて、何とかして「YAKYUU」の秘密を聞き出そうとした。


 困ったフジタは立ち上がると、木の枝で地面に図を書き始めた。最初にフジタは丸いパンケーキを四分の一にしたような扇型の図を描いた。そこに小さい丸を書き足していく。小さな丸は九個あった。次にフジタは漫画のあるページを開いた。そこには、グラウンドに並んだ九人の選手が書かれていた。


 そうか、「YAKYUU」は九人と九人が集まってやるのか。世紀の大発見にチルチルの心は躍った。『YAKYUU」のことをもっともっと知りたい。いつかは、本当の「YAKYUU」をやってみたい。チルチルはフジタが、主人公の奇妙な面をかぶった少年と、切られたパンケーキの中心部分にあたる直角を交互に指さすのを、真剣に見ていた。

 

 

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