第19話 心は香港にあらず
2018年12月、
祥子は手記を公表しないと決めたことで、報復されそうな恐怖からは解放された。しかし胸の奥は蠢くるものに占領され動悸に喘ぐ日が続いた、まるで心臓を誰かに握られているかのような圧迫感であり、脈拍は安静時にも関わらす一分間に80~90回を走り続け、突発的に110回を超える時もあり死の恐怖を味わった。しかしそんなとき、飼い猫とよく目が合って自分を取り戻すことが出来ていた。
もしかすると猫は得体のしれない何かから、祥子を護ってくれていたのかもしれない。
それに比べて大学生になる子供たちは「乙女でもあるまいし」といった冷ややかな視線を注ぐだけで、労わってくれる気配がない。祥子が手記の公表を断念したのは、家族のためだと言うのに……、祥子の不満は積もった、そして不満はダイヤルを回すこととなった。
「もしもし」電話に応答したのは、20歳代~30歳代くらいの男性だった。
「もしもし」と祥子が発すると、女性だと確認されたようで、
「こちらは性被害相談窓口ですが、ご本人様で宜しいですか」
「はい」
祥子は警察署の性被害相談窓口に電話を掛けたのだ。
香港旅行へ
祥子は心臓を何者かに握られながら何を観ても過去ばかり観ていた。
香港の夜景を見ているというのに、コテージの中で四つん這いになれと命令されている。
ビクトリアハーバード沿いに建つビル群は色鮮やかに発色しているというのに、
よろけながらも何度も何度も体を持ち上げようと試みている。
シンフォニー・オブ・ライツでは光と音楽のショーが繰り広げられているというのに、催眠術にかかっているかのように自分で体の向きを変えている。
ショーが終わったら、雪辱しかなかった。
香港の景色は海底に沈まされた水槽の中から見ているようだった。
ロンドンバスの2階から見える景色は、光を横切り風に向かって走っている。
祥子は風の力を借りて意識を戻そうと踏ん張ってみた、しかしバスが止まれば泡に包まれる。
女人街の灯は謎めいていて、中島や西澤の顔が店主の顔に重なり見える、
三橋さんは迷子になった修学旅行生、
信ちゃんは添乗員さえ信用しない過敏な旅人、
露店のお菓子を珍しそうに眺めているのは、
変な夢を見たのだと思い込んでいる祥子だ。
「変な夢ではなかったのよ、真実だったのよ、警察に届けなければ逃げられるわ、だから早く気づきなさいったら」
水槽の中の祥子は、お菓子を眺めている祥子に向かって叫ぶ、しかし声は届かない。
こんなふうに香港に来ているのに過去ばかり見ている。
「失礼ですが、貴女の年齢を聞かせてください」
「55歳です」
「何歳の時の被害ですか」
「26歳です」
「‥‥‥」
「分かっています、時効ですよね」
「ずっと心に抱え続けていたのですか、やっと話せる状態になったのですか」
「違います、今までずっと自分が被害者だったことに気づかずに生きてきました、最近になって眠らされていた時に、聞いていた声が聴こえてきて、強姦されていたことに気づいたのです。だから30年後に覚醒することもあるということを伝えたいのです。それが知れ渡れば、レイプドラッグの予防に繋がると思います。それに、レイプを企てた薬剤師は、動画を撮影して裏ビデオとして販売しています。そんな危険な人間が調剤薬局を10店舗も経営していて、個人情報を知り得る立場にいるのです、再犯の危険性が大きいと思うので捜査して欲しいのです」
「その時の動画か写真はお持ちですか」
「私は持っていません、でも過去に私の周りで〝ビデオ〟についての意味深な発言が多く聞こえていたのであるはずです、それは同窓会でも聴こえていました、でも証言者になってくれそうな人たちは、誰かをかばうものだから本当の事を話してはくれません、でも警察の人が接触してくれれば供述してくれると思います」
「残念ですが、写真や動画など物的証拠がなければ捜査はできません」
「でも、その薬剤師はヤ○ザと親しいと聞こえました、それらしき人がいる場所とは知らずに連れて行かれたこともありました、未遂でしたが、再犯を企てられていたのです、ヤ○ザですよ」
「そのヤ○ザは何組か分かりますか」
「分かりません」
「それだったら調査は出来ません」
「でも、アジトだったスナックの名前も覚えているのですよ」
「すみません、時効のものは調査出来ないのです、それなのに申し訳ないのですが、貴女のお名前と住所を聞かせて貰ってもよろしいでしょうか」
名前と住所を言わなければ信用されないような気がしたので告げた。しかし調査対象外という理由で詳細を聞いてはくれなかった。
昨今レイプドラッグが社会問題となり、警察署は情報提供を呼び掛けているようだが、建前でしかなさそうだ。
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