第17話 母親の不審死

 1989年3月、祥子はK病院を退職するときに送迎会をしてもらっている。その二次会の帰りに、お酒を飲まない祥子は杉山医師にタクシー乗り場まで送って欲しいと頼まれ、承諾して祥子の車でタクシー会社まで向かった、しかしタクシー会社は閉まっていたので、家まで送ってほしいと強請られ、送ることにした。すると酔っていたはずの杉山医師は車の中でしっかりした口調で話し始めた。


「S病院の婦人科でカルテが『標本』にされているから、受診して『標本にするのは止めてください』と言いに行きなさい」

「標本というのは細胞の標本ですか?」

「いや違う、カルテの」

「治療薬の研究ですか、私なんてただの生理痛やもの、何も参考にならないですよ、それも途中で通院することを止めたし、研究に向かないわ」

「そうや、研究には向かない、だから止めなあかん」

「あんな婦人科へは二度と行きなくないから、研究の参考にするのならすればいい」

「あかん、標本にさせたらあかんのや」

「それやったら、先生が忠告してもらえないですか」

「他人が口出ししたら睨まれる、特に大黒は要注意人物や」

「なんで大黒さんの話をするのですか」

「あいつは異常人格や、忠告出来る者は誰もいない、逆恨みされたら死ぬまで嫌がらせをされる‥‥‥、だから自分で言いに行くしかないんや‥‥‥あいつは蛇みたいにしつこい奴や‥‥‥あいつに自殺に追い込まれた子もいてるんや‥‥‥母親も殺してるかも知れへんのや」


 杉山医師は踏み込んだところまで助言をくれていた。それにも関わらず祥子は酔った勢いで愚痴を言っているとしか思っていなかったのだ。


 そういえば、スキー旅行の二ヶ月くらい前に、大黒の母が脳溢血で急死していて、その時の事を職員達は母親の死因が怪しいと噂話をしていたことが思い出された。また夏美が喪服を着て親族席に列席したことで、夏美にも疑いの目が向けられたようで


「まるで婚約者の披露宴みたいだった」と、囁かれていたのだ。


 またスキー旅行の後に、夏美がこんな事を言っていたことも蘇った。


「大黒さん、パソコンを見ながら、『貼りつけの刑』とか、意味の分からない独り言を言うようになって、気持ち悪いねん」

「でも婚約したんやろ」

「婚約はしてないで、お義母さんのお葬式の後から、そんな空気になってるけれど」

「でも喪服を着て列席したんやろ」

「あの人のお母さんが急死されて、その時に『喪服を着て列席して』と言われたから、それを母に伝えたら『それはプロポーズと同じ意味や』と言って慌てて用意してくれたのよ、でもね、ご葬儀は居心地のいいものではなかったわ、あのひとに『針の筵に座らされた』と訴えたけど伝わらないの、私はまだプロポーズもされていないのよ」

「でもプロポーズされれば承諾するつもりなんやろ」

「分からない、気持ち悪いから」


 また同窓会の日の車内の会話も蘇った。

「お義父様の食事の支度には気を使うでしょう」

「私が作ったものは一切口を付けないの、殺されるっていうのよ」

「えっ、痴呆症か被害妄想なの?」

「しっかりしているよ、ちゃんと診療しているし」

「夏美と折り合いが悪いの」

「私との関係は悪くないの、会話もするし、でも主人との関係が奇妙なの、それで我が家からの差し入れはお土産も拒否されるの、ずっと変なの」


 大黒の父親は地元の開業医で、二人の兄は医師と歯科医師をしていて、他県で暮らしており、三男の大黒が父親と二世帯住宅で暮らしている。

 夏美の話を聞いて、大黒はやはり母親を殺しているのかもしれない、そしてサイコバスなのかもしれない、そう思ったとき、手記を公表することが怖くなってきた、K病院の旧知達が口を閉ざす理由はそれなのかとも思える。

 しかし、母親を殺すような人物だとすれば、夏美の命も狙われかねない、夏美には既に電話を掛けているから祥子が勘づいていることは伝わっているはずだ。

 もしかすると大黒は開き直って夏美に全てを打ち明けているかもしれない、そして夏美の苦しむ姿を観て悦楽に浸っていそうな気がしてきた。

 夏美の身が案じられる。

 手記が話題になれば抑止力になるだろうから公表した方が良いだろう、しかし話題にならなければ危険を伴うだけだ、公表することがためらわれてきた。

 間違っても

「もしもし夏美さんいますか、標本です」なんて、電話を掛けてはいけないのだ。

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