第16話 長期記憶

祥子は動悸と格闘していた。最初は自分が弱いからへこたれるのだ、強くなれば良いのだと自分に言い聞かせて過去を探索していたが、現実は甘くはなかった。強姦は次元が違っていたのだ。

祥子は敬寿に秘密にしたままでは心臓が持ちそうもないと観念し、敬寿とスーパーに行った帰り道に意を決して口を開いた

「あのね、強姦されていたかもしれないの」と言ったが、間髪を入れず交わされた

「土地でも見に行こうか」

完璧にスルーされた。それでも祥子は打ち明けることが出来たために肩の荷が下りた。そして、敬寿が「土地を観に行こう」と言った意味は、未来に目を向けようという意味が込められているのだと感じ取れた。また暗い話題は嫌な顔をされるがハグを求めればハグを返してくれた。

「私って汚い?」

「汚くないよ」

しかし、やはり容易に乗り越えられる訳ではない、あるとき敬寿が気を散らすために楽しかった頃の写真を見ればいいと言うので、祥子はアルバムを開けた。しかし二十代の自分を見ると、綺麗だと自負していた写真もあったのに、どれもこれも汚らわしく見えてきて心臓が唸った。見世物だった自分が哀れでたまらない、今ようやく「恥ずかしい女」の意味が理解できた。独身時代の記憶も旧姓も、この命も葬り去りたいと思った。負けたくないが壊れてしまいそうだ。


2018年12月初旬 精神科診察

「パニック障害と言うのはね、予期していない時に突然起こるものなのですよ、でも貴女の場合は、あなた自身が過去に意識を向けることで起こっていますから、パニック障害にはならないですね、意識をそこに向けなければ済むことですから」

祥子は精神経科の医師にパニック障害ではないと言われ安堵した。しかし、医師が言うように、意識を向けないわけにはいかない。

「でも、真実が知りたいです、何かを知っていそうな友人達はみんな口を閉ざすので、自分で過去を振り返るしかないのです」そう言って、祥子は自分が観てきたことのあらましや自殺したかもしれない○○君のことを話した。

「過去が場面として見えるのですね、それは長期記憶というものですよ、絶対音感のある人や、景色を一目みただけで絵が描けてしまうといった人も、長期記憶の持ち主なのですよ、貴方は珍しい脳の持ち主だということです、だから妄想ではないですよ。ところで○○君と言う人の苗字も聴き取っているのではありませんか」

「言い切るには自信がないのですが」

「言ってごらんなさい」

「『ニキくん』と聞こえた気がしますが、自信はありません」

精神科医はカルテに「ニキ」君の名前を書き込んだ。


 祥子はパニック障害ではないと言われたことに安堵し、また妄想ではなく「長期記憶」の脳によるものだと言われたことで、わずかではあるが孤独から解放された。

  

自宅で「長期記憶」とは一体どんなものなのかとネットで調べてみたところ「短期記憶」「長期記憶」のような分類があるという事が分かり、分類は細分化されていることも分かったが理解できなかった。ただ医師が言ったように長期記憶には奇抜な才能を持った人が多くいるという事は分かった。しかし祥子にはそんな奇抜な才能はない、しかし珍しい脳の持ち主なのだということだけは理解できた。そこで祥子のように長期記憶が再生されてゆく過程を知りたいと思い、ネットで症例を探してみたが見つけ出すことは出来なかった。という事は、祥子の症例はレアケースと言うことになる。という事は、この手記は脳科学者にも興味を持って貰えるかもしれないという訳だ。そうと分かれば、この手記は怒りをぶちまけるだけで終わってはならないのだ。

「冷静に自分を客観視しよう」祥子は自分にそう言い聞かせて推敲を繰り返した。そして加害者達には「お気の毒様」と言ってあげたい。


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