第2話 お参り
2018年10月、早朝の琵琶湖岸で釣りをした後に長命寺にお参りをしている、ご本尊は三尊一体の、千手観音菩薩立像、十一面観菩薩音立像、聖観音菩薩立像が祀られている。
寺伝によれば
祥子は口に出して「夫婦で長生きできますように」と拝んでいる。
それともう一つ、心の中で「猥褻な視線を注ぐものたちから精気を奪い、私たちの寿命の足しにして下さい」と念じている。(だって、なかったことにしたいほど過去を汚されていたのだもの)
10月14日 車で片道二時間かけ伊根湾へ釣りに出かけ、往路の途中に成相寺に立ち寄ってお参りした。祥子は「身代わり観音」と呼ばれている聖観音菩薩に雪辱のたけを聞いて貰い、閻魔大王には変態婦人科医の六林を凝らしめてもらうように念じ、さらにS病院内の猥褻集団を地獄に落としてもらえるように祈願した。
こうして少しだけ憂さを晴らしてから釣りに向かった。
しかし伊根湾で釣りをしているときに餌に群がるカワハギを目にしたとたん、祥子はまたしても21歳の頃に戻って恥辱を味わった。
案内カウンターに呼び出され、祥子の顔とカルテを見比べる男たちの顔は紅潮しておりティッシュで鼻血を抑える者もいる。
ボーっとした表情はカワハギの横顔にそっくりだった。
このように祥子の頭の中は嫌らしい事務員達の顔ばかりが占拠した。
空を仰げばどんよりとした低い雲に覆われていて、傘をさすほどでもない雨粒がぽつりぽつりと落ちて来る、そんな中で祥子の釣り竿は針を岩場に引っかけたまま日暮れを迎え、帰路の途へ就くことになった。
車の中で祥子は運転してくれている敬寿に八つ当たりをした。
「男って嫌いや、男って誰でも盗撮ものが好きなのね、貴方も、もしも病院職員だったとしたら、医者の盗撮写真をきっと観るのよ」
「最初は見てしまうかもしれないけれど、見たらあかんものだと気づいたら、見ないよ」
「最初は見るということは‥‥‥群がっているんや!」
「俺に質問するな」
「私の質問に怒るってことは‥‥‥やっぱり見るんや!」
ブォォォォー、
敬寿は強張った表情のまま無言でアクセルを強く踏み、荒々しいハンドルさばきで車を走らせる。
「他人をはねたらどうするの」と祥子は言うが敬寿の耳には届かない、
車は何度もブレーキ音を響かせカーブを曲がる、
そうしてなんとか無事に自宅にたどり着いた。
祥子は敬寿が図星を突かれたから腹を立てたのだと思い、悲しくなって泣いていた。
「なんで泣く、俺が荒っぽい運転をしたからか」
「‥‥‥」祥子はそっぽを向く、男の顔が見たくなかったのだ。
「荒っぽい運転をしたのは悪かった、でもせっかく気晴らしが出来たのに、ぶり返すから、来た甲斐がないじゃないか」
「私にとって、女として一番輝いていたと思っていた時期が穢されていたのだもの、過去を全て抹殺してしまいたいわ、今後は今までの様に生きることは出来ないと思うわ、頭の中であの時の屈辱が何度も繰り返されるのよ、これはきっとパニック障害なのだと思う、そうだとしたら乗り越えられるまで10年は掛かると思う、無理に笑顔になることは出来ないし期待されると荷が重い、今の私が受け入れられないというのなら別居して欲しいわ」と切り出した、この一言には説得力があったようで
「分かった、俺も覚悟を決めて待つ」と言ってくれたが、祥子はまだ納得できていない
「俺は見ない」と断言して欲しいのに、それを言ってはくれなかったからだ。
その後、敬寿は祥子の話に耳を傾ける素振りを見せ始めたことで、敬寿への苛立ちは多少鎮まり一週間後には敬寿に話しかけている。それは誰かに話さなければ心がパンクしてしまいそうなほど次々に過去が蘇り続けたからであり、たとえ敬寿が共鳴してくれなくても耳があるだけでも良いと思えるようになっていたからだ、しかし口に出すことで少しでも気が晴れると、まるで隙間を奪い合うかのように次々に過去が蘇るのであった。
そのうち、いちいち聞かされる敬寿はうんざりとした顔を露わにするようになり、いつしか二人の間には過去が見えた時の話題は一度きりという暗黙のルールが出来上がっていた。
またこの頃より祥子は過去の記憶が再現されてゆく過程と沸き起こった感情を文字に認め始めた。
文字に留めることで脳裏に
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