第1話 共鳴してくれない夫
2018年、祥子55歳
祥子が20年も30年も昔の出来事を、まさに目の前で起こっているかのように見え始めたのは2018年9月下旬の頃だった。自分が性被害者だったという事を知っただけでも衝撃的であるのに、爆竹のように次々に見えてくる光景は心が追い付かず、狂乱しそうになる寸前に夫、敬寿に思い切って打ち明けた。
「あのね‥‥‥若いころ生理痛が酷かったの、それでね21歳の時に恥ずかしさを凌いで婦人科に受診したの、その時に写真を撮られていたみたいで、病名に過多月経とか虚偽の診断名を書かれてカルテに貼られていたみたいなの、それからずっとS病院内で事務員達の見世物になっていたみたいなの」
「せっかく幸せに暮らしているのだから、思い出さなくてもいいのに」
しょんぼりと話す祥子の意に反して、敬寿は表情すら変えずサラリと返してきた。
「だって、21歳の時のことだよ、そんな状況だとは知らずに、30歳のときにS病院に行ってしまって、そこで私は『顔が性器にしか見えない』『恥ずかしい女』『標本』と言われていたのよ、貴方は恥ずかしくないの」
「恥ずかしくないよ」
「じゃあ、今までのように、私と一緒にS県を歩けるというの」
「歩けるよ」
「じゃあ例えば、結婚する前に被害者であることを自覚していたとしたら、結婚しなかったでしょう」
「そんなことで結婚を止める気はないよ」
「じゃあ、もしも私が滅入っていたとしたらどうなの」
「そやなー、性格が暗かったら恋愛してなかったなー、だから今まで気づかなかったんやから良かったと思えばいいやないか」といった具合である。敬寿の優しさは感じ取れるが、共鳴してもらえなかったことに苛立っていた。
敬寿があまりにも動じなさすぎるので、祥子は敬寿に打ち明けた後も気が晴れることなく、何かにつけて21歳に戻ってしまい恥辱を味わい続けていた、そんな折に前々から巡りたいと思っていた西国三十三所巡りを始めることにした。敬寿には、
「急がなくてもいいから、一緒に巡りたい」と誘ってみたら、案の定、
「近場で、釣りも出来るなら」と素っ気ない返事が返ってきた。
5歳年上の敬寿は他人にこびへつらうことがない性格であり、また怒っているかのような顔貌はしているが、実際には怒りを露わにすることは少ない。祥子が三十路を過ぎ、いよいよ婚活を始めた頃の理想のタイプは、少々の事では動じなくて、ありのままの自分を受け入れてくれる「奈良の大仏様」のような人だった、その願望は心の奥底からの叫びであり、どことなく切なさを滲ませるような感覚があった。そんな折に敬寿に出会ってピンときたのだ、しかし結婚してみると〝動じない“と感じていたところは頑固さだった。祥子は結婚を機に看護師を退職していたが、育児が一段落した頃に「復職したい・自分の社会が欲しい」と熱願しても、祥子の意志を顧みてくれないほどワンマンな男だった、その態度に嫌気を指し、窮屈さから逃れたくて離婚を考えた事もあった。しかし祥子が病を2度も患ったことから、復職意欲は薄れてゆき、それに代わって作文を趣味にしたことと、祥子の身を労わってくれる敬寿の優しさに惹かれていったことで、夫婦の危機を乗り越えることが出来たのだ。
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