第3話 「○○君」は誰?

 2018年11月 展示会には敬寿の経営する会社も出展していて、前日からふたりは横浜にきている。その展示会場のざわめきの中、祥子は敬寿に近づき小声で言った

「真夜中に目が覚めて、見えたの‥‥‥」

 展示会の最中であることから敬寿を怒らすかもしれないとも思ったが、敬寿は立ち止まったまま聞いてくれていた。敬寿も朝から祥子の様子がおかしいことを察知していたのかもしれない。

 祥子は30歳の時に、産休教諭の代行で看護実習指導教諭をしていた時期があり、その時にS病院に出入りしていた時の話を始めた。


「最期の実習の日に地下にある食堂で学生たちと談話していたの、隣の食卓では女子事務員のグループも静かなひと時を過ごしていたのだけれど、そこに階段を駆け下りて来た女子事務員がいて、泣きながら『〇〇君が自殺した、これから運ばれてくる』って言っていたの、すると一人の事務員が私のところにやって来て『〇〇君のこと、知っているでしょう』と言ったの、あの時は名前を聞いても誰の事だか分からなかったけれど、21歳の診察の時に、カーテンの向こう側にいた人だったのかもしれないの、どうしよう」

 祥子は声を震わせながら話した、敬寿はいつもなら目を合わせないが、この時は祥子の目を見据えて強い口調で、唾液を飛ばしながらこう言った

「誰が自殺しようと祥子には関係ない、全く関係ない、関係ない、忘れろ!」

「だって‥‥‥だって‥‥‥」

「ちょっと、他社のブースを観に行こう」そう言って敬寿は祥子を誘った。祥子は無言で敬寿の後を付いて歩く、この話題はこれでおしまいだ。


 展示会を終え自宅に戻ってからも、祥子は青年の事が頭から離れなかった。

敬寿は「関係ない」と言うが胸騒ぎを覚え不安で堪らなくなったのだ。


 祥子は聞き洩らしてしまった「○○君」の名前を確かめようと、食堂の場面を何度も振り返ってみた、しかし名前のところは霞んでしまっていて聞き取れない。

 (ヒントは別の場所にもあるかもしれない)そう思い、食堂上の通路も歩いた。

 しかしそこは猥褻魔達の群れでごった返していて、祥子自身が被害に気づいていないことを愉快がり

「標本は先に観た方が良い」

「後で観に行く」といったような声が飛び交っていて、祥子は自らパニック様の症状を引き起こすことになった。

 それでも祥子は、

「どれだけ辛くても人の命が関わっているかもしれないのだから逃げてはダメ、動悸は心臓リハビリテーションみたいなものよ、心臓が強くなればいいってこと、頻拍呼吸だってラマーズ呼吸法で乗り切ればいいのよ、ヒッヒッフーハッ、ヒッヒッフーハッ」と自分に言い聞かせ、行き止まりになっている箇所を睨みつけた。

 その様子を飼い猫がじっと見ている、猫は人間の心音を聞き分けられるのかもしれない。(心臓リハビリテーションとは、運動をすることによって心臓に負荷をかけ、心臓の毛細血管を生育させることを目的としている)


 祥子は○○君が誰なのか、それが知りたくて、懲りずに1993年のS病院の群れの中を歩いていた。

 すると

「顔が性器にしか見えない」といった言葉が聞こえてきて、聞き覚えがあったことを思い出した。

 それは祥子がK病院を退職する直前に、K病院の仲間たちと一緒に北海道へスキー旅行に行った時に聞いた言葉だったのだ。


 K病院の仲間が関わっていたのかもしれないと思った瞬間、心臓が唸った。

でも、本当に心臓発作が起きてしまっては死んでも死にきれない、絶対に犯人を突き止めてやる。

 祥子はK病院の旧知達に電話を掛け、当時のスキー旅行について知っていることはないかと尋ねてみた、しかし、やはり何の情報も得られず、倦厭されているような気がしてきた。

 祥子は、この頃からS病院とK病院は手を組んで、S県あげて隠ぺいしているのではないかと勘繰り始めた。


 そうだとしたら自分で過去を掘り起こすしかないのだ。

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