承 - 2
軽い気持ちで承諾したが、海と佐久の町はそう近くない。電車を乗り継いで四十分、遠くはないがわざわざ行くのには気が重い。
『めんどくさいしイオンじゃだめか?』とLINEで聞いたけれど、『夏っぽくないからダメ』らしい。佐久には理解できないが、どうやらそういうことで土曜午前十時。
陽炎が立ち上る改札前で、佐久と栞はさながら居合の達人のように向き合っていた。
「出会って三秒で相手を褒める」
「おう、似合ってんな」
「どこが」
「全部」
「曖昧過ぎてわからない。……ああもう面倒くさいなあ」
くるくると長い髪を指で巻いて言う。セリフとは裏腹にどうやら上機嫌なようだ。
佐久は一度も栞と目を合わせず呆れた。
「こっちのセリフなんだよなあ」
……より正確に言えば合わせ”られなかった”のだが。夏と言えば、白ワンピース。黒い髪とのコントラストが佐久の目には痛かった。
「まるで、乗り気じゃないみたいだけど」
「ソンナコトナイヨ、それより」
「なに?」
「何しに海行くの」
「秘密」
「……だよね」
ジト目をした佐久に目もくれず、秘密主義の栞さんはてくてくと歩き出す。
──ともかく。
ICカードを改札機にかざして、ホームのベンチに隣り合って座った。
透き通るようなきらめく衣装を纏う栞に対して、GUで固めた佐久の格好は不釣り合いに思えて少し居心地が悪い。無人のホームなのに、誰かが後ろ指を指してくる気分になった。
しばらくして空っぽの電車がやってくると、貸し切りの車両は二人の空間。佐久が鞄から炭酸水を取り出し、開栓音とともに喉に流し込むと、脱力しきった栞は青いシートに寝そべり、「涼しいね」とささやくように言った。
佐久も初めは抵抗があったが、誰もいないことを確認して横になると、小刻みな揺れが相まって心地がよい。遠くで煙突から煙が昇り、にじむように雲へ変わっていく。
二つ前の車両ではアコースティックギターを持った青年が、三脚を立ててミュージックビデオを収録し、一つ後ろの車両には二匹のネコが行儀よくシートに座っていた。うとうとと漆黒の瞳を開いたり閉じたりする栞を、窓から差し込んだ神秘的な光が照らし、鴉の濡れ羽のような髪がそれを反射する。
非現実的な体験に、佐久はまるで天上界行きの電車──銀河鉄道に乗ってしまったかのような感覚を得た。
「……ずっとこのままでいいのにな」
ポツリとギリギリ届くような声で佐久が言うと、栞は困った顔で佐久を見る。
「本当にね。でも残念だけど、もうそろそろ降りなきゃ」
「海ならもうちょっと先だろ?」
「あんな人が多いところ、いけるわけないでしょ。あそこは人気の海水浴場があるだけで、海ならこの駅の近くにもあるし」
ふわぁ。と栞は一つあくびをする。
──まもなく、井手尾、井手尾。お出口は……。
「……やけに主張が強そうな駅だな」
「作った人間が適当につけたんじゃないの? イデオ」
ゆっくりと車両は減速していき、コーラの栓を開けたような音とともに扉が開く。
冷房ボケしていた佐久は、熱気で急に夏を自覚して、立ち上る積乱雲に気圧された。
「あつ……。じゃあこの暑さも誰かが適当に作ったのか?」
「いや本当に、素晴らしいよねえ」
汗一つかかず栞は深く息を吸い込んだ。夏の補給でもしているかのようだ。
「昔から夏好きだよな」
「そうでもない、中学生くらいから。それより前は覚えてない」
「十分昔だな」
「……確かに、もう昔かも」
佐久が栞の横顔を流し見ると、栞はまっすぐと海岸線を見据えていた。
「……俺ら、なんだかんだ言ってずっと一緒にいるよな」
「そうでもない、小学生からだよ」
「それは昔じゃないの?」
「古参を名乗るなら、胎児のころから知っててもらわないと」
「無茶を言うなや」
栞の幼馴染になるのはどうやら無理ゲーらしい。なら佐久と栞の関係は一体どういうものなのか、と問われても、明確な答えを佐久は持ち合わせていなかった。
海岸までの曲がりくねった道を、肩が触れるか触れないかの距離で歩いていく。友達ならば当たり前の距離感なのだろうか。もしくは、もう少し心の深いところで繋がっている何かの作用なのだろうか。
しかし、なんにせよ佐久は現状に満足していた。その事実に満足していない自分もいた。
「ずっと眉間にしわが寄ってるよ。おじいちゃん?」
「年取ると考えることが増えるんだ」
「私を差し置いて何を考えてたの」
栞が面白そうに佐久の顔を覗き込む。サラリと落ちる黒髪はあざとく、緩やかになびく風に攫われる一本一本が艶を出していた。
「……秘密」
「ずるだよそれ」
「神田の必殺技だろ」
栞は基本的に何を聞いても「小出君には関係ない」か「秘密」のどちらかしか言わないし。
「別にそんなことない。……なぜなら、そんなことないから」
「どうしてそんなクソ弁論をドヤ顔で語れるんだ」
「だって、夏だし」
「もっと意味わかんねえよ」
「……だよね。私もわかんないかも。なんだろう」
そう言って栞は眉間にしわを寄せて見せる。
「……おばあさんになってるぞ」
「年を取ると考えることが増えるの。富、名声、この世の全てとかさ」
「もしかして俺を海に誘った理由って……」
「勘がいいねえ……その通りだよ」
世はまさに、大航海時代。
白い”ワンピース”からもう伏線だったのか。
栞がドンと前を指さし続ける。
一本道のその先に小さな砂浜と、大きな海が見えた。
「──私たちは今日、あの海を制覇しに行くの」
「おー」
やる気なさげに佐久が勝どきを上げると、栞は不満げな顔をする。
「別に、冗談じゃないのに」
砂浜には当然のようにバレーボールコートが立っていて、ビーチパラソルやバーベキューセット、ライトマシンガンくらいある大きな水鉄砲や、小さなテント……他にもいろいろ。そこそこ綺麗な海の水平線には、誰かが演出したかのような誂え向きな雲が荘厳に立ち上り、佐久が浜辺に──その情景に見たのは、端的に言えば、『夏』だった。
「あれ、人気スポットだったのか、ここ」
「誰もいないのに人気スポットとかある?」
「だって色々モノが置いてあるし。俺らが座る場所すらなくない?」
砂浜はハンドボールコートくらいの大きさで、本当に小さいものだったから、色とりどりのテントやらバレーボールの支柱やらが立っているそこに、余剰のスペースはなかった。
佐久の疑問に栞は、待ってましたと言わんばかりにフフッと笑う。
「勘が悪いなあ、小出君は。……つまり──」
栞は得意げに少しだけ佐久の前に出て、くるりと半回転し海を背負って手を広げた。広がる黒い髪が浜風に吹かれて、孔雀の羽のようにキラリと光る。
「──今日一日、ここは私たちだけの海だよ。……ほら」
全ての色を吸収する黒の瞳は、まっすぐと佐久だけを見て、刹那、佐久の腕は真っ白なワンピースから伸びる細い手に引かれる。そして足は一直線に加速していく。
「おい」
ぐんぐんと夏へ、砂浜の方へ向かっていく。
「走るよ」
「はぁ?」
最初は手を引かれていた佐久が、不満を漏らしながらもいつの間にか、栞と並走してばく進していく。
「……」
どうして自分たちが──栞が走り出したのか。全くわけがわからなかったが、温かい──しかし心地よい風を切って駆け抜ける数メートルの爽快感で、そんな疑問はそぎ落ちてしまった。
「マジで全部?」
トルクをさらに上げながら問う。
「うんっ。……ぜんぶ」
冷え性の栞の指が手首に食い込む。カメラのレンズを拡大するように、だんだんと夏が近づいてくる。栞は砂浜に到着しても足を止めなかった。むしろ、空と海、二つの青に溶けようと足を回転させる。
「ねえ! どこまで行くの!」
「どこまでって、どこまでも」
二人は浜風を切って走る。
佐久は止まろうと思えばいつでも止まれた。軽い栞の体に引っ張られるような半端な鍛え方はしていない。でも、しなかった。一度走り出した心の慣性が、佐久の心の枷を振り払う。
「ああ、アホだわ。俺ら」
新しいスニーカーに塩水が入り込む。
栞が流されて行かないように手を握り返し、寄せては返す波をものともせずかき分けていく。水平線までたどり着けそうな気がしたが、そのうち莫大なエネルギーに負けて倒れこんだ。
バッシャーン。広大な海にとってはちっぽけな音がはじける。
ザザーン。そしてなにもない平穏を海は取り戻す。
波打ち際に放り出されて、佐久と栞は仰向けになって太陽を睨んだ。
「……アホでいたいなあ。私は」
祈るような声で栞は答えた。
いつの間にか繋がっていた手は解かれて、佐久は濡れたTシャツのことを思い出す。
「俺、帰る服ないけど」
「……どうして用意してこないの?」
「予想するか? こんなこと」
「隣に誰がいると思ってるの」
「そりゃそうか。っ……!」
ため息交じりに、海へ浸かる栞を見た瞬間、そのため息がヒュッと引っ込む。
あまりにも濡れた栞が刺激的だったのだ。
濡れて透けた白いワンピースは煽情的に、体のラインを強調するように張り付いて、心臓が大きく跳ねる。乾いた時には見えなかった、薄い青色の衣類が栞の胸元に浮かび、図らずも視線は惹きつけられるようになっていた。
──ヤバいヤバいヤバい。
「……変態?」
「わ、悪い」
「スイカ割りでもする? 小出君の頭で」
「……いや、ほんとすまん」
佐久がやはり目をそらしながら謝ると、栞はフフッと笑った。
「別に怒ってないって。ちょっと恥ずかしいけど、この下、水着だし」
「水着なのが問題なんじゃなくて」
「パンツで女の子が泳いでる方がよかった?」
「……日本語初めてか?」
「善意解釈が仇になっちゃった」
「寧ろ悪意しか感じねえ」
栞はゆっくりと立ち上がり、ハイライトが全くかかっていない目をして言った。
「見られて減るもんじゃないし。……とりあえずさ、あっちでスイカ割りしようよ」
「やっぱ怒ってるよね? 見ちゃったのは不可抗力だって──」
「せっかく私が水に流そうとしてるのに。普通のスイカ割りだよ。……もう」
クーラーボックスからスイカを取り出して、栞は憤慨する。
何年一緒にいても感情だけは本当に読めない。
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