承 - 1
「……今日は入ってないよな?」
軽くトラウマを呼び起こす下駄箱へ、昨日慌てて買いに出かけた新しいスニーカーを入れながら結論付けたのは、そいつが『死にたい』なんて書くわけがない。という事だった。寝不足気味で正常な判断かは怪しいが。
だいたい誰が手紙を入れたのか直接見ていないんだし。
見えていないものはまだ確定していない。……シュリケンジャーみたいな人がそんなことを言っていた気がする。猫がなんたらって話。
もしくは、そいつによるイタズラの可能性だってある。
『もしかしてラブレターだと思った? 残念、疲レターでした』
「……いや、ないな」
それくらいしょうもないことを言いそうなのは確かだけれど、そいつがやることにしてはあまりにも悪質すぎる。二階の教室までの階段がやけにキツい。朝練のせいだろうか。……だったらよかったねと自分にツッコむ。
まぎれもなくこれは精神的な負荷だ。
……結局、誰かが手紙を書いたことに違いはなくて。
──どうして俺の下駄箱にそれが入っていたのか、それを読んだ俺にいったい何をしてほしいのか。薄水色の紙切れが繰り出す試練は終わらない。
佐久は廊下の窓から無差別に人を刺す、ギラついた空を見上げた。
昨日の空より、今日の空の方がなんだか青いような気がする。もしかしたら明日の空はもっと青いのかもしれない。
暑さに切り離されたように涼しく笑う、そいつの季節がやってきたのだと、夏という季節がやってきたのだと改めて実感した。
***
教室のそいつは相変わらず不思議な奴だ。
こんなに蒸し暑い部屋だというのに、さらさらと流れる黒髪を耳にかけ、今日も難しそうな本を一心不乱に読んでいる。『存在と時間』なんて言われたって、受験に使う訳でもなければ、佐久が知っているわけもなかった。
「おはよ、神田」
机にリュックサックを置きながら、佐久は言った。
教卓から見て右後ろ、小出佐久の席は一番後方、その前が神田栞。青葉が茂る木に景観が遮られた窓は、枝の隙間から空の青さと、校庭の陽炎を透過させて、効いているのかどうかも分からない扇風機が、カラカラと天井で回り続けていた。
「モイン」
返事の代わりに栞は謎の言葉を発する。
「……あ?」
あまりにも強烈な熱気に、頭が狂ってしまったのだろうか。顔をしかめて訝しがる佐久を、気にも留めずに栞はもう一度謎の呪文を繰り返す。
「モイン」
「……モイン?」
ふざけているようにも見えず──そもそも、真っ黒な栞の瞳からは感情を読み取ることができず、佐久はただオウム返しをするしかなかった。
しかしそれが栞の琴線に触れたのか、彼女の口角が緩やかに上がる。
「モイン」
よくわからないが、どうやら目の前の変異体と通信が確立できたらしい。
それからハイファイブを要求されたので、流されるままに佐久は応答信号を返して、ぱちーん。まるで挨拶がアメリカン。
奇妙な(ディス)コミュニケーションは今に始まったことではないので、ダウナーに佐久は応じる。
「やけにテンションが高いね」
おかしな方に。それを付け加えるか迷った。
「君こそ今日はやけにテンションが低いよ」
「そうか?」
「うん、肩がちょっとだけ下がってる。蟻にでもフラれた?」
「俺の恋愛対象は蟻なのか」
「冗談で言ったけど、ちょっとあり得そうかも。蟻だけに」
小さな唇に手をあてて栞はフフフと笑う。
「……ナシだわ。そのギャグ」
「まあ。蟻にはフラれないけれど、雨には降られるみたいだよ、今日」
「マジか、傘持ってきてねえ」
栞は頬杖をついて窓の外を見やる。目線が上に傾いでいるのは空模様を伺っているのか。
「アンラッキーだね。……私は一本持ってるけど」
「……つまり?」
「わからない? 私達二人で傘は一本」
「……」
上目遣いで栞は佐久を見上げる。特徴的な光のない瞳が佐久を見つめていた。
佐久は降りしきる雨から身を守るように、肩を寄せて歩く二人の姿を想像した。
しかしニンマリと栞は笑う。夢の空間から醒ますように。
「──つまり、小出君が一人ずぶ濡れになって帰るってことだね」
「は?」
「は? ってなんなの。あ、想像してたのって相合──」
佐久は首を勢いよく横に振った。
「考えてない。……多分」
「──じゃあ、どう思う? 私のこと」
手に持った本をパタリと置き、佐久と視線を合わせたまま立ち上がった。五十センチは離れていた顔と顔の距離が急接近して、顔一つ分低い栞の誰よりも黒く光る眼が佐久を捉える。
「近い、近いって」
栞の吐いた息をそのまま吸い込めるような距離は、膨張してはち切れそうなくらい胸が跳ねる。片隅とはいえ教室の中、異端児である佐久たちを、クラスメートは不思議そうに眺める。
「答えたら離れてあげる」
急になんだってんだ。今日の神田はいつも以上に狂っている。……いや別に変わらないかもしれない。いつも異常に狂っているが正解だ。
どう思うか。……そうだな。
「し、身長伸びたな」
「一ミリ縮んだ」
「シャンプー変えた?」
「ずっといっしょ」
「……今日、いい天気だよな」
「どこ見て言ってるの?」
生憎、教室の窓は青葉に遮られて、いい天気など望みようがなかった。佐久は仰ぎようのない空を仰ぐ。正直、お手上げだった。
「……少しくらい手加減してくれ」
「小出君が素直になれないのが悪いと思うけれど」
「人には向き不向きがあるんだよ」
こんなところでケリをつけられたら、初恋は5年も拗れていない。
ともかく、束縛の邪眼から解き放たれ、佐久は自分の席にどっかりと座る。相対するだけで人を吸い込んでしまいそうな黒い瞳は、どうにも自分の奥の奥まで見透かされているようで、惹きつけられるほど魅力的な分、気味が悪かった。
「そんな体たらくでこれからどう生きてくの。ヘタレにつける薬はないのに」
「言ってはならないことを言ってしまった」
「私だって本当は言いたくないのにね。小出君がヘタレなばっかりに。……かわいそうな私」
「大根役者みたいな嘘泣きやめなよ」
「……誰の足が大根って?」
「それはもう当たり屋みたいな言いがかり」
敵だけ武器の使用が認められたデスマッチのごとく、佐久だけがゴリゴリと削られていく。不公平じゃないかと意義を申し立てたくもあるが、これがどうしてなかなか楽しいのだ。
「その言いがかりをとっかかりに。一つ質問があるのだけど」
「俺は下手なジョークを処理する係か?」
「私のこと、好きか嫌いかで言えばどっち」
仕方なく乗ってやったというのに、栞は気にもせず自分の話題を進める。
しかし、佐久はあらかじめ質問内容を、なんとなく想定していたので即答することができた。
「まあ、好きだな。好きか嫌いかで言えばな。かといって本当に──」
──好きとかそうとかは置いといてともかく友達的なあれで好きだな。
「よかった、嫌われてなくて」
佐久の弁論などどこ吹く風だった。
栞の感情を漆黒の瞳から読み取ろうとすれば、喜んでいるようには見えないだろう。それでもそれ以外のパーツがしっかりと感情を表現していて──具体的には目じりが少し下がっていて、頬が少し上がっている。栞の感情の機微に自分しか気づいていないだろうという優越感が佐久を満たす。
「……そんなことが聞きたかったのか?」
「いや、それはとっかかりで。一つ提案があるのだけど」
とっかかりをとっかかりにして、栞は言う。
「今週末。一緒に海にいかない? ……よかった。じゃあまた後でLINEで」
「いやまだ何も言ってないけど。俺のターンは?」
質問から返答までゼロコンマ二秒。ボクシング選手でも見切れない間合いだ。
「沈黙は是って知らない?」
「天使すら通れない間にねじ込んできたなあ」
しかも今日は金曜、つまり週末は明日。
「とにかく私は忙しいの」
栞はバックから手帳を取り出して、薄い青のページに『7月22日、海』と書き込む。
……薄水色のページ?
佐久は栞との会話で忘れかけていた大事なことを思い出した。
「手紙……」
「なに? もう私行くけど」
そう言って栞は荷物をまとめ立ち上がる。
『妙な手紙をよこしてきたのはお前か?』
なんて、唐突に言いだせるわけがなかった。
「……急に黙るの怖いなあ」
さすがの栞も佐久の異変に戸惑いを見せる。
「いや、その手帳──」
キーンコーンカーンコーン。
見計らったかのように予鈴が鳴った。栞は真っ黒な目を見開く。
「やば、もう行かなきゃ」
「おい。まだ話は終わってないけ──」
「私は終わったの」
「今から授業だろ」
「今日は有給取ってるから」
「そんな制度ウチにねえよ」
「じゃあ代わりに返事しといて」
「無理があるだろ」
「裏声のコツは喉ぼとけの位置。じゃあね」
慣性が長い後ろ髪をその場に残して、栞はするっと教室を抜け出していった。
爽やかな、それでいて落ち着くシャンプーが香る。
「……やれやれ」
冬眠した熊が暴れだすように、夏の栞は毎年どこかおかしい。
秋や冬はカタツムリの如くコートや規律にくるまっておとなしいのに、夏になると授業はサボるわ人の都合を無視するわ、やりたい放題の暴君である。
それでいてあの静謐で清廉な雰囲気──整った黒髪やずっしりとした黒目から、教師にはサボタージュがばれていない、まさかこの生徒がサボるわけがないと思われているらしいから質が悪い。佐久にしてみれば、栞以上の破天荒な人間などいないというのに。
──ピロン。
スマートフォンに着信アリ。
『佐久くん。土曜朝10時、駅集合でよろしく!』
俺は部活だっつの。佐久は内心でぼやいた。……にしても。
「別人すぎるだろ、メール」
明らかに人格が違う。別の人間に乗っ取られてたりするのではないだろうか。
そもそも佐久くんって誰だよ。小学生の頃に捨てた下の名で呼ばれ、少しニヤけながら佐久はツッコむ。
『はいよ。体調不良になるから行ける』
『さっすが! 部長にチクっとくね』
マジで殺されるんだよなあ。白目を剥いてスマートフォンを鞄に滑り込ませた。
本鈴が鳴る、授業が始まる。ぽっかりと空いた前の席は、栞のいない世界を想像させられて、退屈な気分になった。講義が始まるとすぐに考えることがなくなって、さっき見たばかりの青いページの手帳を佐久は思い出す。
やはり、あの手紙は栞が書いたのだろうか。『死にたい』と、本当に思っているのだろうか。
木々の間から見える校庭の奥、開きっぱなしになった裏門から、姿勢よく歩く栞が凛と大脱走を遂げていた。
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