Perfect Blue

花井たま

起 - 1

 咽び泣いたみたいな、通り雨が止んだ。

 地球が熱を出したように蒸し暑い蒸気が立ち上る。

 気が付いたら夏だった。なんとなく夏が来た。けして待ちわびていたわけでもなく、別に嫌いというわけでもない。女の子が薄着の季節はいいよね。というのが小出佐久の正直な感想だった。

 風が吹けば藁の切れ端が飛んでくるような田舎道では、幾何学模様の鉄骨が織りなす鉄塔と、雨上がり特有の透き通った濃い藍の空、そして西側から赤いペンキをひっくり返したような、そんな夕空のみを仰ぐことができる。

「うへぇ」

 足を踏み出すと、にゅるり、気持ち悪い感触がした。せっかく夕立を避けて下校を遅らせたのに、佐久の右足は泥まみれになっている。

 都会の水たまりとは質が違う、この土地に住む人間を表すような、生暖かく、ねちっこい泥水が靴の中を這いまわる。ドジを踏むのは佐久らしいといえばそうとも言えるが、どうも今日の佐久は調子がおかしかった。

 眩しい西日に背を向け、使い古したスニーカーを路上で脱ぎ、汚れた学生服のズボンのすそをもう一度払う。そしてポケットの中にある憂鬱の正体を引っ張り出し、恨めし気に睨んだ。

「……」

 それは手のひらサイズにも満たない小さな紙切れだった。もしこれが退学処分を告げる書類だったとしても、ここまで憂鬱になることはなかっただろう。

「……どうしてこうなった」 

 呟き、バットケースを携えた肩を落とす。部活を終えた体に、肉体的な疲労と精神的な疲労がのしかかる。

 佐久が指でつまんでいる紙は、恐らく手帳の切れ端。ノートのように真っ白ではなく、少し青みがかかっていた。

 それが学校の下駄箱に入っていた。雨宿りをしたときにそれを見つけた。

 学校の下駄箱に入っている手紙と言えば……ベタな展開が思い浮かぶ。

 冷静になってみればラブレターだなんて思い上がりも甚だしいのだが、三十分前の佐久は冷静ではなかった。

 手紙を見つけた瞬間、佐久に電流が走り、一本も撃ったことがないホームランの快音が鳴り響き、地球の裏側からサンバの祝福が聞こえ、俺の遅い春は今ここに始まったのだと一人色めきだった。

 いやいや俺も捨てたもんじゃないですねと、ウキウキしながら手紙を開いた自分を殴りたい。

「……」

 深い碧に染まっていく空は高く、佐久は折りたたまれた紙を裏向きのまま開き、直視しないように、もう消えかけた夕日のその端へ透かす。淡い青色を貫通して文字が黒く光る。

 

 『死にたい』

 

 言霊なんか信じていないけれど、四文字で伝えられる最大の感情が、直接見ずとも常時心臓へ飛び込んでくる。

 しかも見覚えのある筆跡というのが、佐久にとっては奇妙で、奇怪で仕方がなかった。「り」に見える「い」を書く人物はそういないから。

 佐久は”そいつ”の死にたそうな顔を懸命に想像してみるけれど、どんな状況になっても淡々と乗り越えていく顔しか思い浮かばない。

「……俺に何をしろって言うんだ」

 この暗号を解く鍵も、鍵を見つける手がかりも持っていない。一文字ずらしてみたってナンセンスな文へと変わり、そもそも暗号かどうかも定かではない。

 意味が分からないという意味では、暗号と呼べるのかもしれないが。

「しらねぇー」

 ──かこーん。

 佐久の蹴り飛ばした石が標識の下へ一直線に飛んでいき、甲高い衝突音が間抜けに鳴り響く。共鳴するように電線から数羽のカラスがアホー、アホー。と鳴きながら羽ばたいた。馬鹿にしてんのか。

 カラスに八つ当たってみても当然謎は解けない。寧ろますます暮れていく空の色とリンクして、謎が深まるばかりだ。だから淡い暖色が消える前に、世界が謎に包まれる前に──思考を振り切るように佐久は帰路へ駆けだす。

 スニーカーの中でうごめく泥が、どうしようもない気味の悪さを演出していた。

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