思うこと in地下鉄
延暦寺
ただただ漫然とスマホについて思うことを語る
地下鉄なんかに乗っていると、大体の人がスマホを見ているように思う。ゲームをしている人、メールをチェックしている人、SNSをやっている人、ネットサーフィンをしている人、まちまちだ。別に個々人が何をしてようとどうだっていいのだが、しかし皆がスマホの画面に食いつく様子は、いささか不気味である。
中学生のくせに何言ってるんだ、と思われるかもしれないが、現代人には“間”が無さすぎるのだと思う。列に並んで待てないというのも、移動時間に何かしなくっちゃっていう強迫に囚われるのも、結局社会全体が空白の時間を嫌う傾向があるからなのだ。ラインなんかもそうだ。手紙がポケベルになって、Eメールになって、どんどん待ち時間が減ってきた。その中でラインは短文の繰り返しによって一種の会話が成立するという点で特異だ。リアルタイムにほぼ近い状態で、これはこれですごく便利だ。地震の時とかも、こうやって外部と連絡できたというのはとても大きかった。
でも一方で、手紙を出して、帰ってくるのを待つ時間というものの良さは、どんどん失われているように思う。時間が加える重みがなくなって、軽い言葉がポンポン飛ぶ。
もっとゆっくり生きればいいんだ。全力疾走をし続けたらいつか息は切れる。あんまりにも焦って生きすぎなんだ。何に追われているんだ。何から逃げているんだ。
自分からじゃないのか。
ゆっくり生きるっていうのは、何も薄い人生を送れってことじゃなくて、まっさらな時間を作ろうねってことだ。
最近、しばしばSNSで誰かの発言が炎上したりするが、それもみんなに余裕が無いからなのだ。自分にゆとりが持てなくて、自信が無くて、他者の些細な発言が許せなくなって、前後関係とか、TPOとかを全く調べもしないで完膚なきまでに叩きのめそうとする。
こんな殺伐としてたんだっけ。
電車で、スマホ見るのをやめて、ボーっとしてみるといい。電車の帯広告とか眺めてみたり、地下の照明が電車の速さでどんどん流れてくのを追ってみたり。ちょっと周りを観察して、忘れていた何かを思い出して、我に返った時には、多分なんで自分が怒ってたのか分からないことばっかりではないだろうか?
もちろん、寸分を惜しんで働いている人を非難しているわけじゃなくて。社会として、周りを観察して過ごすための時間、みたいなあやふやなものを許容できるようにすべきなんじゃないかと思うわけです。観察して見つけたものが、何かのアイデアにたどり着いて、誰かを助けるかもしれない。観察は芸術家たちの得意分野だけど、だからと言って彼らに任せっきりじゃなくて、自分たちでも世界を眺める時間を作ったら、楽しいんじゃないだろうか。世界って、全外綺麗にできているんだと思う。あとはそこに気づけるかどうかだ。
何なら、一週間スマホの電源が付かなくなる、とかいうイベントをやってみるのはどうだろうか。SNS命だった人はどうするのかな。ユーチューブ命だった人はどうするのかな。遠くの人と連絡を取りたいとき、どんな手紙を書くのかな。書けるのかな。
ま、こんなこと言えるのもあと数日。もうすぐ、僕もスマホデビューなんだけどね。
思うこと in地下鉄 延暦寺 @ennryakuzi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます