第76話 決断

 マーズはウインクをして「特別だからね」と付け加えると、両手を伸ばし伸びをする。


「それじゃ、僕はそろそろ地球僕の世界に帰るとするよ。そろそろ疲れてきたし、この『食糧庫』に異変があるかもと、コアから連絡を受けて様子を見に来ただけだから。この『食道』で君が帰るもここに残るのも、僕は強制はしない。この『食道』は僕がいなくなれば自然に塞がるから、決断は急いだ方がいいかもだよ。……ただ、出来る事なら君には地球僕の世界に戻ってきて欲しいかな。これから先、君からも素晴らしい負のエネルギーを貰えるかもしれないからね」


 マーズの姿が段々と薄く色褪せていく。最後に「地球僕の世界で待ってるよ」と言い残すと、完全にその姿は消滅した。



 ボクはマーズが消えた辺りをポカンと眺めていた。


 一方的に捲し立てたマーズからの情報を、頭の中で必死に整理する。


 母竜が伝えてくれたマーズの存在が、この世界に混乱を招き、今も尚、マーズによって残り僅かな希望でさえも搾取されている。……そういう事なの?



「……カズキ。穴が塞がっていくのです。早くしないと!」


 マクリーの声でボクは自分が置かれていた状況を思い出した。


 マーズが『食道』と呼んでいた穴は少しずつ小さくなっている。それでもまだ、人一人くらいは通り抜けられる大きさがある。



 ボクがあそこを通り抜ければ、意識が戻るのだろうか。


 ボクが目を覚ましたら、母さんはきっと抱きついてくるに違いない。普段は頑固な父さんも涙を流して喜ぶかもしれない。


 おじいちゃんなら、人目を憚らず頬擦りくらいはしてくるだろう。


 そうして再び、当たり前の毎日が戻るんだ。


 きっと三人はボートレーサーになる事を諦めさせ様とするだろうけど、ボクは絶対に譲らない。どうやって三人を説得しようか。


 ……いや、その前に入院中で落ちた体力を取り戻さないといけないかも。リハビリはどれくらい必要なのかな。



「……これでお別れですね、カズキ。向こう元の世界に戻っても、吾輩の事を忘れないでくださいね」


 マクリーの消え入りそうな声が、伝声管から聞こえてきた。



 ……本当にそれでいいのかな?



 確かにあそこをくぐり抜ければ、ボクの日常は戻ってくる。



 ……だけど『モン・フェリヴィント』の皆の日常はどうなるの?



 マーズがいる限り、この世界に温かな光は差し込まない。



 これから先もコアを操り銀幕で人々の幸せを奪い、やがてこの世界は枯れてしまうのだろう。


 マーズが言っていた通りに、地球元の世界が原因でマーズが生み出されてしまったのなら、一体誰がこの世界に対して責任を取るのだろうか。


 マクリーは我儘にああ見えても根は優しいから、そして肉親との別れの辛さを知っているから、ボクを引き留めようとはしてこない。


 だけどヴェルナードたちは、マクリーからこの世界の混沌の原因を知らされた時、元の世界に帰ったボクの事をなんて思うのだろう。


 他人の目が気になるとか、そんな卑屈な心の弱さではない。


 ボクは仲間に対して堂々と胸を張っていたいだけだ。


 そしてボク自身、元の世界に戻った後も、数ヶ月間苦楽を共に過ごした『モン・フェリヴィントみんな』の事を心から、仲間だったと思う事ができるだろうか。



 ———そんなもん、思える訳ないじゃんか!



 地球元の世界に戻ったら、この世界の記憶は思い出せなくなるのかもしれない。


 だけど、もしそうだとしても。


 今、心の奥底からじんわりと湧き上がるこの情炎が、嘘偽りのないボクのまっさらな真実だ。



 お世話になった人たち———かけがえのない仲間を助けたい。



 肉親の情よりも、ボートレーサーになる夢よりも、その他諸々の何よりも、『モン・フェリヴィント』で育んだ絆は、太く、そして想像以上に、ボクの心の大部分を占有していた様だ。


 ボクは急いで懐から紙とペンを取り出した。


 この筆記用具は、もしボクが無事に元の世界に戻れたなら竜翼競艇機スカイ・ボートとマクリーが帰還する時、感謝の気持ちでも一筆添えようとゲートルードから貰ったものだ。


 ボクは急いで用件を書き殴ると、紙飛行機を作り出す。


「マクリー! これをあの穴に飛ばして!」


「え? カズキは帰らなくていいのですか?」


「いいから早く!」


 マクリーの開閉式ハッチを外して紙飛行機を託す。


 マクリーの力が紙飛行機に宿ると暗闇に緑の尾を靡かせて、紙飛行機は『食道』の奥へと消えていく。


 少しずつ萎む様に『食道』は小さくなり続けると、程なくして元の世界へと続く道は完全に消滅した。

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