第13話 弱い心との決別

 ボクはゲートルードにお礼を言って診療小屋を出ると、一人とぼとぼと町に戻った。


 これから夕暮れを迎える町は人通りが多く、皆が広場へと足早に向かっている。


 その広場に到着すると、あちらこちらに野菜や木の実や食肉が並べられ、夕餉の食材を求める多くの女性たちで賑わっていた。ちょっとしたバザー会場のようだ。


 ボクは人の間を掻き分けすり抜け、お目当ての売り場へと向かう。


「やあいらっしゃい。またきたね」


 恰幅のいい中年の女性はボクの顔を見るなり声を掛け、にんまりと笑い掛けてきた。


 皆があからさまにボクとの距離を取る中で、このおばさんだけは周りの目にも構わずに接してくれる。


 任務初日の夕方、初めて夕食を購入しようと広場でウロウロしていたボクを呼び止めて、いろいろ教えてくれたおばさんだ。

「私もアンタくらいの子がいるからねぇ、人事だとは思えないのよ」と、周りの訝しんだ視線も気にせずに頼もしい笑顔を湛えてそう言ってくれた。


 おばさんの目の前に並べられているのはサンドイッチ——野菜をただただこれでもかってくらい豪快にパンに挟んだだけのもの——なのだが、それでもボクにとってみれば、出来合いの物が買えるのはとても助かる。


 見慣れない食材が多い中で自炊をする勇気は流石にない。


 ボクはその豪快サンドイッチを一つ取ると、ポケットから小さな木札を四枚おばさんに手渡した。


 ———月と花をモチーフにした紋章が焼きごてで刻印されているこの木札が『モン・フェリヴィント』のいわゆる通貨だ。この木札は大、中、小とあり、ボクは任務初日にヘルゲから当面の生活費として中札五枚を渡されている。


 ついでに『モン・フェリヴィント』での食事事情を話しておくと、朝はこの広場で豪快な炊き出しが行われる。


 炊き出しに木札は必要なく、望む者全員にタダで食事が配られる。


 男たちはそこで朝食を採り任務へと赴いていくのだ。


 さらに望めば水気のないパンや木の実を炒った物ももらえるので、ボクはそれを昼食のお弁当がわりにしている。


 なので最悪お金——木札がなくても、夕食を我慢すれば何とか生きてはいけるって事。


 ここ三日間で顔見知りになったおばさんの、周りも思わず振り向くくらいの「またおいでよ」を言う声を背で聞きながら、ボクはそそくさと広場を後にした。

 

 広場の西側にある道を進みしばらく歩くと、比較的大きな建物が建ち並ぶ一角が見えてくる。


 大きな建物はそのほとんどが集合住宅——いわゆるアパートだ。建物自体は大きいけれどもそのほとんどがオンボロで、中には崩れないのが不思議なくらいの廃墟マニアが喜びそうな建物まである。

 

 建物に塗られたブリェルも色褪せて薄いオレンジや黄色に変色している事から、この辺りの建物にはあまり気を使われてない事が容易に推測できてしまう。


 ボクはその内の一軒の建物へ入ると、急勾配の階段を上がっていく。最上階の三階まで登ると、五つあるうちの一番右の扉を開ける。


 そう、ここがボクの部屋なのだ。


 天井の高いその部屋の間取りは聞いて驚くなかれ、なんと約三畳! 


 その狭い狭い空間に椅子がポツンと一つあり、壁に固定されているの梯子を登るとロフトの様なベッドがある。


 足の長い二段ベッドの下で生活するイメージを想像してもらえれば、ボクの置かれている環境がお分かり頂けると思う。


 まったく泣きたくなる様な環境だよ! 


 だけどヘルゲに言わせると、親元を離れたばかりの若者の、最初の住居としてはこれは一般的なレベルらしい。任務初日に仕事が終わりこの部屋を仲介してくれたヘルゲにもちろん何の文句もないんだけど。


 ———どうやらボクの初任給ではここが身の丈に合った部屋って事なのだ。


 ボクは丁寧に壁に掛けてあるヘルメットやカッパや救命胴衣カポックなどの乗艇装備品に目をやると、本日何度目かになるため息を惜しげもなく吐いた。


 五ヶ月かあ……長いよなぁ、やっぱり。


 そもそも五ヶ月ここで我慢して地上に降り立っても元の世界に帰れる保証なんてどこにもない。手掛かりがあるかどうかさえ分からないのだ。


 五里霧中、暗中模索、八方塞がり。自分の置かれた状況を無理やり言葉に表してみても、ロクな言葉に変換されやしない。


 諦めた訳じゃない。ボートレーサーになる夢だって捨ててない。だけどもしもだ。もし帰れなかったら。


 ここで暮らすより地上で暮らす方がいいよね、やっぱり。


 元の世界に帰れる事に一縷の望みを繋いでいるけど、ダメだった時の事も考えておかないと。


 うん。まあ、なんとかなるでしょ。


 能天気でお気楽な性格は、やっぱり若月家の血筋なのだろうか。ボクはそれ以上深くは考える事はやめにした。


 ボクはゴロリと床に寝転がる。



「……ボートに乗りたいなぁ」



 ロフトを見上げ頭を空っぽにしてみると、自分の欲求がするりと素直に口から溢れ出た。


 ここでの生活とかこの先の不安とかよりも、モータースポーツから遠ざかった生活が一番辛いのかもしれないと、ここ数日で痛感している。


 ボクにとってのモータースポーツは、もはや生活の一部だったのだ。


 モトクロス競技からボートレーサーへシフトチェンジはしたけれどその本質は変わらない。


 オイルの匂いが染み付いた体でスピードを操り風を裂き、誰よりも速く。それだけが楽しくてここまでやってこれたのだ。だけど、今はその染み付いたオイルの匂いでさえも忘れてしまいそうだ。


 記憶を取り戻してから今日まで、元の世界に帰れない事で悲しくなる事はあったけど、泣きそうになった事はなかった。


 だけど今改めてモトクロスやボートの事に思いを馳せると、どうしても瞳が緩んでしまう。


 自分の体の一部を失った様な喪失感は勢いを増し、心の弱い部分をだんだんと蝕んでいく。同時に見上げた視界が滲み出し、フルフルと揺れ始めた。


 ……だめだ! 泣くなボク! 


 袖で荒々しく目を擦りボクはスクッと立ち上がった。そしてサンドイッチをもぎ取る様に掴み取ると、部屋に唯一の窓を開け、棧に腰掛けてサンドイッチにかぶり付く。


「大丈夫。ボクは生きている。まだレース終了チェッカーフラッグじゃないんだ」


 やっぱりボートレーサーになる夢は捨てられない。


 それだけは譲れないと確信できる。


 ならば、ウジウジしている暇はない。自分が動かなければ、何も変わりやしない。弱音を吐くのはこれで最後にしよう。そして。


 ———ボクにやれる事をやろう。うん。今はそれだけでいいや。

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