第3話 謎の声

 ボクに向かってとんでもない暴言を吐いて去るヴェルナードが扉の向こうに消えた後、部屋に残ったゲートルードに向かってやり場のない怒りを解放した。


「げ、ゲートルードさん…… ボクは女です! お・ん・な! ピッチピチのうら若きガール! 花も恥らう可憐な乙女! 男じゃありません!!」


「そ、それは失礼しました。保安部があなたを保護してここに連れてきたのが三時間前。とりあえず呼吸もしっかりしていたので、目が覚めるまで様子を見ようと濡れていた体を軽く拭いただけで処置や治療はしてませんでしたから……その、外見だけで私もあなたを男の子だと思ってましたし……あ、いや。失言でした」


 そういう事は思っていても口にしないで欲しい。


 せめて体を拭いたときに女と気づいてよ! と声を大に叫びたかったがそれは謹んで飲み込んだ。


 ボクがぱっと見男の子に見間違われる体型をしているのは、自分が一番よーく分かっている。


 なかなか発育しない胸と腰は、昔からボクが抱えるコンプレックスなのだ。


 友達はボクの事を「スレンダーで羨ましいわぁ」なんてよく言っていたが、ボクから言わせればそれは聞こえのイイ悪口だ。


 その度に心の中で「その喧嘩、受けて立とう!」と何度思った事だろうか。


 ……んん? 昔から? 名前さえ分からず、自分がどこの誰かは思い出せないけど、そういう事は覚えてるんだ。 


「それに、『落人おちうど』の治療は初めてですからね。何せ生きた『落人おちうど』と初めて対面するのです。どんな薬が効くのか、そもそも私たちと同じ治療法で正しいのか全くの未知の領域ですから私も自信がありませんし。あ、これは失言でしたね」


 ゲートルードはやや自嘲気味の笑顔を見せると、ポリポリ頭を掻き始めた。


 清潔感のある白のハーフコートとこの部屋の主っぽい所作から、このゲートルードが医学や治療に携わる人物だとは察しがつくが、こんなうっかり屋さんで務まるものなのだろうか。


 本当にこの人に任せっきりで大丈夫かな?


「まずは一晩ゆっくり休んで、明日から本格的に健康状態を調べていきましょう。お腹は空いていませんか?」


「うん。今は何も食べたくない……」


「そうですか。では私は自宅に戻るので、今夜はここで安心してゆっくりとお休みください」


 本棚の隣にある小さな明かり取り窓は、すで夜の帳で黒く塗られていた。


 時間の感覚がズレてたボクはそれを見て、今が夜だと思い知らされる。


 ゲートルードは奥の机から水差しを持ってくると、ベッド脇の小さなテーブルにコトリと置いた。


「飲み水はここに置いておきます。それと万が一のために、扉の向こうに見張りを一人置かせてください。……あ、あなたが逃げるとかそういう事を心配している訳じゃありませんよ」


 今度は自分の失言に気がつかないまま、優しい笑顔で「おやすみなさい」と言い置いて、ゲートルードは部屋を出て行った。


 部屋に一人残されたボクは水差しを手に取り、水を注いでコップに口をつける。水は常温でたいして美味しくなかったけど、確実に喉の渇きを潤してくれる。


 ボクはくぴくぴ水を流し込みながら、改めて今置かれているこの状況について考えた。


 ———言葉も喋れる。会話もできる。


 机、本、コップ、ヘルメット、身の回りにある物の名前も分かる。


 試しに九九を暗唱してみた。……うん。全部言える。


 だけど自分が何者で、今までどこで何をしていたのかは思い出せない。加えて自分の周りの人間、友達や家族の事も全く思い出せなかった。


 ……どうやら今まで覚えた知識はちゃんと覚えているらしいけど、自分に関することだけがすっぽり抜け落ちているみたい。


 冷静に自分の身に起きた出来事の状況整理が終わると、心に押し留めていた不安が一気に襲ってきた。


 泣きたくなる様な状況に、本当に涙がこぼれ落ちる。


 生きている中での不安や心配事なんてきっと少なからず持っていたはずなのに、記憶が戻らない今となっては、それすら思い出せないのがもどかしい。


 涙が二、三粒頬を伝って抱えていたヘルメットに滴下した。


 流した悲しみの滴は丸みを帯びたヘルメットを伝い、弧線を描いてシーツに落ちる。


 先ほどの理屈っぽいイケメン———ヴェルナードから聞いた『モン・フェリなんとか』と言うらしい記憶にないこの土地で、ボクはどうなっちゃうんだろう?


「……んぱいないですよ」


「———!? 誰?」


 確かに声がした。


 とても小さくてよく聞き取れなかったけど、とても澄んだ声だった。ボクは辺りをきょときょとと窺い耳に意識を集中させる。


「……さあ、もう一度会いにきてください」


 今度ははっきりとそう聞こえた。


 だけど「聴く」と言うよりは「触る」に近い感覚だと思う。


 優しい手つきでそっと触れられた様なその音声を聞いた後、ボクはいきなり強い睡魔に襲われた。


「大丈夫。体を楽にしてゆっくり目を閉じて……」


 心に心地よい余韻を残すその言葉通りに目を閉じベッドに倒れ込むと、ボクはヘルメットを抱えながら再び眠りに落ちていった。

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