(3)
英士とヒスイが教室に戻ったのは、授業が始まる二分前だった。
流石に弁当を食べる時間はない。少なくとも四限目を、シュークリームひとつで乗り切らなければいけないというのは、いささか心もとないところである。
「おい、英士。どういうことだ、おい」
腹の虫を鳴かせないにはどうすればいいかと真剣に考えていたところ、英士は前の席の悪徳眼鏡に絡まれることとなった。
「何がだよ。腹を空かせた俺は、普段ほど気が長くないぞ」
「普段から君の気が長いかどうかは置いておくとして、とぼけるのは良くないぞ英士」
「だから何だよ。はっきり言えよ」
すると靖久は突然英士の顔にアイアンクローをかまし、そのまま彼の首を九〇度回転させた。
英士の視界に移ったのは、ゴミ箱に捨て損ねたシュークリームの包装を小さく折りたたんでいるヒスイと、彼女に集中する女子たちの好奇の目、そして英士自らに集中する男子ほぼ全ての敵意に満ちた視線であった。
「興味が湧かないって言ってたのは何だったんだ。ヒスイちゃん独り占めして、昼休みいっぱい何をしてたんだ」
「……」
いろいろあって忘れていたが、そうだった。ヒスイは注目の美少女転校生なのだ。
そして、午前中にヒスイが蒔いた種を、英士はしっかり収穫したかたちになっている。
「話せば長くなるんだが……」
「授業始めるぞー。日直」
「起立、礼」
英士に弁解の時間は用意されていない。
英士は、針のむしろに座らされる気分とはいかなるものか、存分に理解することとなった。
* * *
結局英士は、昼休みの説明の全てをヒスイに任せることにした。
下手に英士が口出しして、ぼろが出るのも好ましくない。それに、英士がヒスイのことなど興味ないと主張したところで、彼女の観察姿勢が変わるわけでもないのだ。彼女の希望する設定を受け入れるのが、波風を立てずに事をやり過ごすには一番だろう。
今更、風評を気にしても仕方がない。
「私はエージの家に、姉と共に下宿している身だ。一つ屋根の下で暮らしている。これ以上の事情は恥ずかしいので公表したくない。私も乙女なのだ」
おかげで英士は、ヒスイがそんなことを言っている最中も、「もう少し恥じらうような表情しておけよ」などと考えながら、冷めた目で眺めることができた。
間の抜けた、というより白々しいとさえ言える語りだったが、特に問い質そうとする者はいなかった。ちょっと電波入ってるな、くらいの認識で済んだようだ。
羨ましがる男子から涙の拳を数発頂いた英士だったが、それだけで四限目のような熱は収まった。おかげで英士は、五限目をずっと快適に過ごすことができた。
ただし、快適過ぎて居眠りしたため、教科担任からお叱りは頂戴した。
「エージ、一緒に帰ろう」
授業が終われば、帰宅部の英士は帰路につくのみである。
それを知っていたのか、もしくは部活動というものを知らないのか、ヒスイは五限目が終わると迅速に英士の下へやって来た。
「……嫌だ」
一人でのんびり歩く帰り道が好きな英士である。ヒスイへの嫌悪感が当初ほどでなくなったとはいえ、わざわざロボットと連れ添って歩くのは気が滅入るというのが本音だ。
「……」
ヒスイが僅かに目を伏せる。
その動作で、クラスのそこかしこから殺気が迸った。
「……一緒に帰りたい」
何故クラスメイトたちは、今日転入してきたばかりのヒスイを支持し、馴染みの友である英士を攻撃するのか。世知辛い世の中である。
ヒスイの提案した「共に動きやすくする」という策は、より正確には「共に動くことを強制させる」ものだったのかもしれない。今更ながら、英士はそんなことを思った。
「英士、女の子を泣かすのは良くないぞ。僕のようにはなるな」
「すまん、ヒサ。意味がわからない」
泣かせた女は星の数、などと痛々しいことを主張する靖久だが、彼がモテるという話を英士は聞いたことがない。
「エージ」
「わかった。わかったから」
袖を引っ張るヒスイに、英士は渋々折れた。こういう動作はどこで学んだのだろうか。
何にせよ、この教室に充満する殺意を無視して帰るというのは、英士にはできそうになかった。
「……計算高い奴だよ」
「それほどでもない」
教室を出て、小さな声で悪態をつく英士。しかし、ヒスイが気にする様子はない。
「これから、毎日こうなのかね……」
「こう、とは何だ」
「今日のような状況のことだよ」
「昼休みのようにロボットが搬入されることは、毎日ではないだろう」
「……おまえ、本当に真面目に会話してるのか?」
「無論だ。問題があれば指摘してほしい」
ヒスイと会話していると、自分が普段どれだけの言葉を省略しているかわかる。それでコミュニケーションが成立しているというのは、実は凄いことなのかもしれない。
しかし、こういったことを毎度のように解説するのは骨が折れそうだ。
昇降口に着くまで考えを巡らし、英士はヒスイに言った。
「何か言われて、『それは違うんじゃないか』って思ったなら、それをまったく言葉通りに解釈するのをやめてみろ」
「どういうことだ。それでは会話は成立しない」
ヒスイが眉をひそめる。まだ少し不慣れな感じが出ているが、まあまあの表情である。
「別に相手が嘘をついてると思えってわけじゃない。むしろ逆だ。相手の言うことが正しいって考えるんだ。それが成り立つような……範囲とか、対象とかさ。自分で決めてみて、おまえの中で条件付けしてみるんだよ」
「都合よく解釈しろということか」
「まあ、言い方は悪いがそんな感じかな。今後は、それを踏まえて会話してみろ」
「ふむ……」
個々の間違いを指摘するより、思考の方向性を矯正した方が効率的である。それを具体的な言葉にするのは難しいが、ひとまず英士は思いついた一つの指標を彼女に与えることにする。
上手く意図が伝わればいいのだが――
そんな英士の視線を受けながら、ヒスイは顎に手を当てじっくり考え始めた。
電子頭脳なら思考は一瞬で終わりそうなものだが、案外そうでもないらしい。実は英士の想像もよらないほど膨大な量の情報が駆け巡っているのかもしれない。
こうやって深く考え込んでいる姿を見ると、何故か姉の横顔が思い出される。英士はそんなことを思ったが、不謹慎に感じて、その考えを振り払った。
彼女は校門前の坂を下りるまで、無言のまま英士の後ろをついて来た。
「エージ。考えがまとまった。先ほどの会話をもう一度しよう」
「は? ……あ、いや、これからの会話で気を付ければいいってことだよ。さっきのを再現しても仕方ない」
「何だと……」
意気込んで英士の隣にやって来たヒスイだったが、英士の対応に言葉を失う。
「もう一度やろう。私の思考の結果を、エージに評価してほしい」
「やだよ、面倒くさい。っていうか、同じ会話をもう一回って……そんな間抜けなことしたくないし」
「では、今の私の努力は何だったのだ」
「努力が即座に報われると思ったら大間違いだ」
「厳しい世界だな」
「背を丸めて俯いてみろ」
「こうか」
律義に英士の指示に従うヒスイ。なかなかの悲壮感が漂う姿になる。
「厳しい世界だな……」
心なしか、語調も暗くなっている。
自ら指示したにも関わらず、英士は自分が悪いことをしたような気分になってきた。
「……わかった、わかったよ。やればいいんだろ、さっきの会話」
「やってくれるのか、エージ」
猫背のまま英士の方を向くヒスイ。そうは見えないが、多分喜んでいるのだろう。
英士はヒスイの姿勢を矯正してから、投げやりな調子で先程の台詞を繰り返した。
「これから、毎日こうなのかね……」
「エージの言う通りだ。我々はこれから毎日、起床し、登校し、授業を受け、昼食を摂り、下校するだろう。私が行うエージへの観察行動は、多少の変化はあるが、概ね同様の流れに沿うと考えられる。酸素濃度や温湿度も大きな変異はなく、それから……」
「待て。ちょっと待て」
「……待とう」
嬉々として語り始めるヒスイを、英士は苦い顔で止める。ヒスイはそれに従うが、中断されたことが不満なのか、睨むような目つきで英士の顔を窺ってきた。
「いちいち考えたこと全部言う必要ないんだよ。そんなややこしい会話があるか」
「ではどうすればいい」
「肯定して終わりでいいだろ」
「それでは私の思考がエージに伝わらない」
「俺とおまえが、完全に思考を共有する必要があるのか?」
「しかし……」
なお食い下がろうとするヒスイだったが、続く言葉はない。代わりに、顎に手を当てて自分の世界に入り込んでいる様子だ。この所作は、ヒスイの癖かもしれない。癖というよりはテンプレートであるが、この動作が姉を想起させる原因だと英士は気付いた。
「エージに質問がある」
「何だよ」
しばしの沈思黙考をおき、ヒスイは再び英士に声をかける。
「何故これほどまでに、省略が求められるのだ。会話では聞き手の想像による独自解釈が求められる。話し手が思考の全てを語れば、ややこしいと揶揄される。分かり辛い、伝わり辛いこの省略という行為に、どのようなメリットがある。思考の行き違いという、ともすれば大きな争いの火種になる事態を、リスクとして置くだけのメリットがあるのか」
さて、難しい話になってきた。
英士は眉間を揉みほぐしながら、ヒスイの主張に考えを巡らせる。
そもそものところ、英士を含めたほとんどの人間は、そのような細かいことを考えて会話をしているわけではない。メリットとデメリットを天秤にかけたこともないだろう。
ただ、そういう習慣がついているのだ。そうあることに、疑問を抱くこともないのだ。
勘違いで喧嘩をした、思い違いで失敗した、そんな経験を誰もが持っているにも関わらず。
英士は、この件について、ヒスイを納得させ得る理屈を持っていなかった。
「考えてみれば……馬鹿らしい話なのかもしれないなぁ」
「そうだろう。これは愚かな慣習だ」
我が意を得たりと、ヒスイは胸を張る。
しかし英士は、敗北感を覚えるでもなく、彼女に忠告した。
「だけど、おまえは人類の習慣を評価するのが仕事じゃないだろ。人間に近づくためには、たとえ悪習だろうが従うべきじゃないのか」
英士の指摘に、ヒスイはその表情を停止させる。
唐突にぴたりと表情が止まるというのは、人間が驚くのとはまた少し違ったものであり、なかなかにシュールである。
ややあって、彼女は眉尻を下げて、小さく息をついた。いや、息をつくような仕草を行った。
「エージの言うことは正しい。私が人間の習慣について善し悪しを評価するというのは、推奨される行為ではなかった」
この辺りの聞き分けの良さは、彼女の美徳である。
英士は沈んだ様子の彼女の頭を、ポンと叩いてやろうとした。
「ところで、エージ」
しかし、急に振り返ったヒスイに、英士は右手を引っ込めた。
先ほどまでの憂いの表情は何だったのかと言いたくなる、見事な無表情だった。
「今度は何だよ」
「私の記憶では、今歩いている場所は、エージの帰路からずれている。何か用事があるのか」
二人は、オフィスビルや大型の雑貨店、娯楽施設に溢れる、光哲市の中心街を歩いていた。光哲高校の長い坂を下りてしばらく直進すれば、頼寺通(らいじどおり)――即ち、中心街で一番広い大通りに出る。
英士たちはその頼寺通を歩いているが、殿羽家は確かに方向が違う。通りに出る前に右折し、街から離れる方向に進まなければならない。
つまりヒスイは、英士がまっすぐ家に帰らないことに関して、疑問を感じているということだ。
「いや、用事ってわけでもないけど。単なる道草だよ」
「この辺りには田園や沢などはない。トンボもカエルもいないと推測される」
「おまえはいったい道草をどう定義しているんだ」
「光哲市も外縁部は農業地区だっただろう。そこに行けばいい」
「話を聞け!」
農業地区は自然も豊かで、ロボット都市と呼ばれる光哲市の一部とは思えない場所である。英士も小学校に入る前は、姉に連れ回されてよく遊びに行っていた。ワサビ畑の近くでホタルを見た記憶は、今でも鮮明なものだ。
しかし、流石に高校生にもなって、農業地区へ昆虫採集に行くわけがない。
「この辺りの道をぶらぶら歩いて、ちょっと買い食いとかしながら時間を潰すんだよ。のんびりとな。それが日課なの」
「非生産的な行為だ」
「生産的な趣味なんてあるもんか。まあ、どうしても意味が欲しいって言うなら……そうだな、この通りの終わりまで歩いて戻って帰宅すれば、約八キロのウォーキングだ。健康にいいだろ」
「わかった、それで手を打とう」
何か使いどころがずれているような発言だが、ひとまずヒスイは納得したらしい。
うんうんと小さく頷いているヒスイの姿は、覚えたての言葉を使えて満足する小学生のように見えた。
嬉々とした顔でトンボやカエルを捕まえるヒスイの姿を、何となく想像できてしまう英士だった。
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