第2章

(1)

 ――えーじ、こっちだよ。


 ねーちゃんが連れて行ってくれるのは、いつだって新しい世界。

 ドーナツが美味しいお菓子屋さん。

 お魚の水槽でいっぱいのペット屋さん。

 夜の冒険では農業地区でホタルも見た。


 ――やったね、えーじ。


 新しい世界を知る度に、ねーちゃんと僕はぐーをぶつける。

 ミッションクリアの、秘密のサインだ。


 ――今日はどこ行こうか、えーじ。


 顎に手を当てるねーちゃんは、すぐに新しい行き先を思い付く。

 そうして僕は、また新しい世界に包まれる。


 いつだって、ねーちゃんが前にいた。

 この手を引いていてくれていた。


 ああ、だけど知っている。この後どうなるのか、俺は知っている。


 この手は急に自由になって、前には誰もいなくなる。

 真っ暗な世界で、どこに進めばいいのかもわからない。


 何も見えないのに、不愉快極まる音はする。

 規則的な歯車のような、ロボットたちの行進のような。

 異常な音が、ガンガンガンガン頭に響く。


 ああ、うるさい。

 今日の目覚めも最悪だ。




 英士は布団をはねのけて、けたたましい音を立てる目覚まし時計を止めた。


「おはよう、エージ」


 そしていつの間にか不法侵入しているロボットを見て、英士はいつにも増して憂鬱な気分になるのだった。



* * *



 才花たちが殿羽家にやって来た翌日、ヒスイは正式に2‐Cに転入してきた。


 ヒスイ・キャルヴィンという、改めて見れば妙な名前がスクリーンに映り、ヒスイは丁寧に挨拶をする。朝のHRは、にわかに活気づいていた。

 銀髪碧眼の美少女が転入してきたとあって、男子の鼻息は否が応にも荒い。昨日のことがなければ、英士もその一団に混ざっていたはずである。

 そして目敏くそこに気付く男が、英士の前の席には座っている。


「意外と冷静だな、英士。もしかしてあれか。昨日、既に仲良くなっちゃっていたのか」


「いいや。今回ばかりは興味が湧かない」


「そいつはまた珍しい」


「別に俺はそんな軟派なキャラじゃないと思うんだが……」


「それは君がそう思っているだけさ」


 昨日靖久と取った行動を鑑みれば、英士の主張に意味がないのは明白だった。

 英士は自習をサボって美少女を探しに出ていく男子生徒である。


「やるせない……」


「人生とはそういうものだ」


 彼に知ったような口を叩かれるのも癪だが、英士に反論の言葉はなかった。


「それじゃ、キャルヴィン……言い辛いな。あー、ヒスイは窓側の一番後ろに座れ。目は悪くないな?」


「お心遣い感謝します。私の視覚機能は高い水準を実現しており、現状不具合は発見されていません」


「……ん、わかった」


 ヒスイが担任の牧山に一礼して、指定された席に向かう。

 あんな危うい発言をしていたら、案外すぐにロボットだということはバレるのではないか。英士は彼女を横目で見ながら、そんなことを考えた。もっとも、着席するまでの立ち居振る舞いを見ていると、やはりそれはないだろうとも思えてしまう。


 ちなみに、英士の席は通路側の一番後ろである。ヒスイの席とは、ちょうど教室の幅の分の隔たりがある。才花としては教室でも英士とヒスイを近くに置きたかったはずだが、さすがの彼女も席順までは操作できなかったらしい。


(まあ、この距離でガン見されても困るんだけど……)


 そう思いつつヒスイの方を見ると、案の定彼女と目が合った。


 しっかりガン見していた。


「…………」


 英士は頭を抱えて突っ伏した。


 ヒスイは、まだ適度な加減というものを把握していない。そもそも生まれて半年しか経っていない彼女には、経験が足りていないのである。成長型AIを持つ以上、放っておいてもその辺りの機微は学んでいくのだろうが、現状は細かい指示を必要とする。

 英士にとって幸いなことに、ヒスイは彼を比較的優先順位の高い存在として認識している。


 ロボットは人間の命令に従うが、矛盾した複数の命令を与えられた場合、その強制力について自己判断をしなくてはならない。第一条に抵触しない限りは、組織の上下関係や人間側の経験や熟練度、そして命令を発した時の状況などがその指標となる。


 ヒスイにとって最上位の命令権を持つのは才花であり、彼女は英士に従うようヒスイに言い含めている。厳命しているわけではないのが難しいところだが、英士の方からヒスイに強く言い聞かせたことは、それなりの拘束力を持つ仕組みになっている。あからさまに見るな、くらいの命令なら、ヒスイは素直に従うはずだ。


 それを踏まえて、目下の課題を挙げるとするなら――命令を発する、タイミングだった。


「では、これでHRを終わりにする」


「起立、礼」


 牧山が教室から出ていく。そうなると、残された生徒たちが大人しく着席するわけがない。


 ヒスイの周りに、途端に人だかりができる。英士には、そこに突入する勇気はなかった。

 あの中に飛び込んで行って「あんまり俺の方を見るなよ」などと言おうものなら、英士の残る高校生活は、軽蔑と憐憫の視線に彩られた黒歴史の一つと化すだろう。英士は、そこまでのリスクを負うことはできなかった。


「ヒスイちゃん、どこの学校から来たのー?」


「綺麗な髪だなー、うらやましい!」


「ヒスイさん、兄弟とかいる?」


「ねえ、彼氏持ちぃ?」


 怒涛の質問ラッシュに、あたかも聖徳太子であるかのように的確に対応するヒスイの姿は、やはり人間離れしたものがある。

 解答のほとんどは才花が用意した架空の設定であるが、この程度のことについて裏を取ろうとするほど、疑心暗鬼で暇な高校生はそういない。ぼろが出ることはまずないだろう。


 しかし、それはそれとして、ヒスイは受け答えの最中にもちらちらと英士の方を窺ってくる。それにつられて、クラスメイトの視線がちくちくと英士に注がれる。

非常に居心地が悪かった。


「あの子の方は、えらく英士の事気になってるみたいだね」


「嫌になるよ」


 靖久の言葉を適当に受け流しながら、英士は机に伏せる。


 ヒスイが英士を気にするのは、才花の命令である以上仕方ない。英士の命令では、覆しようがない領分である。そこはもう英士は諦めていた。


 しかし、このあからさまな観察は止めてもらわなければ、英士の神経がもたない。

 昨日のうちに注意しておくべきだったと後悔しつつ、英士はため息をついた。



* * *



 昼休みの時間がやってきた。

 ヒスイは早速女子たちに囲まれかけたが、英士がそっと手招きすると、その包囲をするりとくぐり抜けてついて来てくれた。


 あまり一緒に歩いているのも見られたくなかったが、午前中ずっとヒスイが英士を見つめていたおかげで、既にあらぬ噂が立ち始めている。今更尾ひれのひとつふたつ付いたところで、何も変わらないだろう。


 英士は昨日才花と話した中庭のベンチまでやって来た。


「さて、ヒスイ。俺はおまえに言っておかなければならんことがある」


「なんだ」


「まあ座れ」


 ヒスイは素直にそれに従う。


 ベンチに座り、遥が作った弁当を広げ始めた。


「……」


 箱型ロボットは、今日は枯れた花を片付けている。ヒスイはそれを眺めながら卵焼きをつっつき、ふと思い出したように英士の方に顔を向けた。


「エージは食べないのか。昼休みは昼食を摂る時間と聞いている」


「……後で食うから、いい。っていうか、どうせ吐き出すなら食うなよ」


「弁当を作ってくれた遥に報いるため、弁当箱を空にする必要がある。また、私に消化系はないが五感は存在する。おいしいものは食べたい」


「……そういうものなのか。いや、そんなことはどうでもいいんだ」


 いきなりペースを乱されかけるが、英士は深呼吸して平静を取り戻した。

 別に彼女の食事に関する云々など、今は問題ではない。


「おまえは俺のことを観察しなきゃいけない。才花さんの命令だからな。おまえが嫌々やってるのはわかってるつもりだ」


「そうだ。私は大して興味もないエージの行動を観察することに、未だ意義を見出していない。エージの何を学べばいいのか、理解していない。現状、私がエージに劣っている要素は皆無と言っていい」


 何故ロボットにこんなことを言われなければならないのか、やはり釈然としない。


 ただし、それはヒスイも同じだろう。

 科学の粋を集めて創られたであろう彼女が、どこの誰とも知らないロボット嫌いのことを勉強しろと言われているのだ。同情の余地くらいはある。しかし引っぱたきたくはなった。


 もちろん、見られるとまずいので実行には移さない。


「……だから、おまえの任務に対する姿勢が大雑把になるのは仕方ないと思う。だけど、午前中みたいにじっくりねっとり俺を見つめ続けるのはやめてくれ。俺がもたないし、おまえにも変な噂がつくぞ」


 怒りを抑えつつ、英士はヒスイに言い聞かせる。


 ヒスイはもそもそとたこさんウインナーを咀嚼し、呑みこんでから、英士に向き直った。


「大雑把と言うのは心外だ。私は、与えられた命令をこなす上で、最善の方策を取っているという自負がある」


「最善? あれが?」


「無論、あれは第一段階に過ぎない」


 英士に戦慄走る。

 午前中のヒスイは既に、授業そっちのけで英士を見つめている。これが第一段階だというのであれば、第二、第三はどうなってしまうのか。


 おもむろに自分の席を離れ、英士の脇に佇むヒスイを想像して、彼は身を震わせた。


「……おまえ、ロボットってことを隠そうとしてるんだよな?」


「当然だ。しかし、今その問いを私に発する意図がわからない」


「いや、気にするな。それより、今後の展望を教えてくれ」


「わかった」


 気にするなと言えば気にしない、その素直さはヒスイの美点である。

 ロボットなので当然と言えば当然だが。


「第一段階として、私は過剰にエージへと視線を向けている」


 過剰という自覚があったことに、英士はひとまず安堵する。

 どうやら、現在の行為をエスカレートさせるのが意図ではないらしい。布石としての第一段階という意味なら、英士にも納得できる答えを用意しているのかもしれない。


 英士は頷いて、彼女に続きを促す。


「幸いにも私はエージの異性としてモデリングされている。一見不自然なほどにエージを観察することで、周囲にある共通認識を発生させることができるだろう」


「共通認識……ねえ」


 安堵したのも束の間、また暗雲が立ち込めてきた。

 女の子が男の子をじっと見つめることで生まれる共通認識。そんなものは一つしかない。


「私がエージに好意を持っている、あるいは強い憎悪を持ち命を狙っている。生まれる認識は、このどちらかだろう」


「……後者は、学校という環境下ではまず生まれないと教えておいてやる」


「そんなことはわかっている」


 わかっているなら言うな。英士は心の中でそうなじる。言葉にしてもかわされるだけだろうから、口には出さなかった。


 それにしても、あらぬ噂がヒスイの目論見通りだったとは。


「それで? おまえは、俺のこと好きだって囁かれてどういうメリットがあるんだ?」


 彼女が、本当に英士の事が好きというわけではない。そもそも彼女はロボットであり、少なくとも現状、恋愛感情など存在しないのだ。

 つまり、彼女の行動は純粋な損得から来るはずであり、何かしらの意味がなければおかしい。


 その英士の予想は的中した。


「私がエージと共に行動するという点に、正当性を持たせることができる。これは、今後の任務の円滑化に繋がる。恋人は四六時中一緒にいるものだとサイカに聞いた」


 平坦な口調でそう告げるヒスイ。

 改めて英士は、ヒスイの中にロボットを強く感じた。


「……本当に、色気もへったくれもないのな」


「そんなものを期待していたのか」


「しちゃいないけどさ」


「不可解な男だな」


 そういうヒスイの表情には、あまり変化がない。

 英士は彼女の眉間に手を伸ばすと、ぎゅっと軽くつまんでやった。


「何をする」


「不可解だと思うなら眉をひそめるくらいしろよ。その方が人間らしい」


「ふむ」


 ヒスイは箸を置いて自分の眉に触れた。数秒間捏ね回して、手を下ろす。


「不可解な男だな」


 眉間に力強くしわを寄せたヒスイに、英士は小さく笑い声を上げた。


「不愉快なものを見るような顔だ。やりすぎ」


「難しい」


 ヒスイは自分の眉間をごしごし擦り、「しかし」と繋げる。


「エージが私に何かを教えてくれたのは嬉しい」


 その言葉に、英士はどう反応するか迷った。

 と言うより、今の自分の態度が自分らしくないことに困惑した。


「……ヒスイは俺のこと、嫌いじゃないのか?」


 つい、そんなことを口にしてしまう。余計に自分らしくないと思ったが、聞かずにはいられなかった。

 ヒスイは、無表情のまま答えた。


「私はエージが『ロボットが嫌い』と言ったことに関しては、今も腹に据えかねている」


 腹に据えかねる。またもや、ロボットらしくない発言である。


「しかし、私はエージの人格に嫌悪を抱いているわけではない。評価点もさほどないが」


「どうでもいいってわけか」


「それは違う。私は才花から、エージに関心を向けるよう言われている」


 いまいち話が噛み合ってこない。

 やはり、ヒスイはロボットなのである。英士は再び、それを強く感じた。


「エージは、私が嫌いなのだろう」


 ヒスイが確認を取るように尋ねる。

 いや、と言いかけて、英士はそれを止めた。


「……嫌いだよ」


 彼女は魅力的な容姿をしているし、見方によっては誠実だ。まだ常識は欠けているが、向上心も旺盛である。

 彼女のそれを人格というのなら、そこに嫌う要素は見受けられない。


 ただ、英士はロボットが嫌いなのだ。


「……戻ろう。俺も昼飯食わなきゃ」


 英士はベンチから立ち上がる。

 ヒスイはそれを見ると、自分の弁当を一気にかき込み、英士を追った。


 それが単なる「フリ」なのかと思うと、やるせない気分になる。

 しかし、「おいしいものは食べたい」という欲求を果たしているというなら――まだ、可愛げがあるような気もした。


 ふと見ると、箱型ロボットは新しい種を蒔いていた。

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