第1章
(1)
「おはようございます。今日も一日頑張りましょう」
昇降口前にいつも立っている円筒型の警備ロボットが、快活な挨拶を少年に投げかける。しかし彼に返事をする余裕はなかった。
殿羽英士(とのばえいじ)は今、窮地に追い込まれていた。
ベルトコンベアにも似たオートウォークの大廊下を、彼は全力で駆け抜けていく。『廊下は歩くな』の警告文を一段スキップした暴挙だが、背に腹は代えられない。そういう悲壮な覚悟が、その姿からは滲み出ていた。
予鈴は校門をくぐる前に鳴っている。次にあの電子的な鐘の音が響いた時――それが、彼の命運が決まる瞬間である。
階段を駆け上がり、リノリウムの廊下に差し掛かる。こちらには『廊下は走るな』の定型文が掲示されている。しかし、今更英士がそれを意に介するわけもなく、むしろ『二‐C』の表示を視界に捉えたことで、その走る速度はさらに上がっていた。教師がそこに居合わせれば小言の一つや二つは飛んで来るだろうが、せっせと窓ふきに勤しむ細長いアームを持ったロボットには、彼を咎める機能など備わっていない。
英士の手が教室の扉に届く。人肌を感知した扉が自動的に開いた。
ほ とんど音は立たなかったが、英士の荒い息遣いに気付いた数人の生徒が振り返り、「またか……」と呆れ半分の眼差しを送る。
英士が教室に入ったその時、狙いすましたかのように授業開始のチャイムが鳴り響いた。
「間に合った……!」
扉の目と鼻の先にある自分の席に腰を下ろし、液晶ペンタブレットがはめ込まれた机に上体を預ける。少々粗雑な扱いだが、指紋も油汚れも放課後にはロボットが綺麗に清掃してくれる。それを知っているからか、備品を丁重に扱う様子のない彼に注意をする者もいない。
ただ、彼の前に座る銀縁眼鏡の男が、ニヤニヤと嫌味な笑みを浮かべて振り返った。
「残念だったな、英士。一限目は牧山先生が休みで自習だよ」
事なきを得た安堵に包まれていた彼の表情が、空回りした気合いに対する落胆に染まっていく。
その内心と全力疾走による息の乱れの相乗効果によって、英士が吐き出したため息は、深く、大きいものとなった。
「遅刻未遂も今日で何度目だ? まったく、これで一度も遅刻がついてないっていうんだから凄いよね。奇跡的だ」
そんな英士に感心して見せる銀縁眼鏡の声音は、嘲笑うような調子が含まれていた。
容姿は生真面目な優等生といった風情だが、鼻にかかったようなナンパな声で喋る男である。指で黒い短髪をいじる様も、どこかナルシスティックだ。
英士は彼の言葉に、「ふん」と鼻を鳴らして答えた。
「何だよ。ヒサは俺に、そんなに遅刻してほしいのか?」
「まさか。奇跡の連続を前提とした君の学生生活に期待と憧れを抱いているところさ」
「軽蔑してるくせに」
「ちょっとだけな」
「……おい」
「振ったのは君じゃないか」
このような性格ではあるが、素行も成績もいいので学校側の彼の評価はすこぶる良い。ただし、それをあからさまに鼻にかけるので、生徒側からの風当たりが強いという業を背負っている。
それが、この葉上靖久(はうえやすひさ)という男だった。ちなみにヤスと呼ぶと怒る。
「まあ、とにかく。君はこれだけ朝に弱いんだから、送迎つけてもらったほうがいいんじゃないか?けっこういるぞ、自動車通学。ここ、丘の上にあるし」
「嫌だよ。高校生にもなって親の送迎なんて」
「そこは自動運転のロボットだろ。今時高くもないんだから」
靖久の指摘に、む、と口をへの字に曲げる英士。
ロボットに車を運転させて通学する生徒が、この市立光哲高等学校には一定数存在する。
運転をロボットに任せるというのは、別段珍しいことではない。自動車道でのオートクルーズなどというのは昔からある技術だし、アクシデントに対する反応も人間の目よりロボットのセンサーのほうが確実だ。そして楽なのである。
靖久は、そういった生徒たちの一人になれと言っているわけだが、英士にそんな気はなかった。
「ロボットは嫌いだ。それに徒歩通学は俺のポリシーなの」
「路線バスも駄目か?」
「あれこそ全部が全部、ロボット運転だろうが。絶対御免だね」
「今時機械嫌いなんて流行らないぜ」
「流行り廃りの問題じゃないんだよ、これは」
英士は机の上に鉛筆とノートを並べつつ、そう答える。
「それもだ、英士。知ってるか。そのタブレットはメモの機能もファイリングの機能も付いている。先生が送ってきた教材を表示するためだけのものじゃない」
「当たり前だろうが。でも俺はペンと紙の方がいい」
「キテレツな奴だねぇ。もはやアンティーク趣味の域じゃないか」
靖久が大袈裟に首を振ってみせる。
移動手段や教育の場に限らず、今や生活と機械は切っても切れない関係にある。電動機の簡易化、記憶媒体の小型化、データ送受信の高速化、それに伴うセキュリティの発達――ハード・ソフト問わず、あらゆるものが利便性を求めて進化を続けてきた結果だ。それは知能に裏付けられたヒト文化における、当然の方向性だろう。
中でも、ロボット技術の発展は、近年特に目を見張るものがある。
人間の代わりに、人間のようなミスをせず、様々な仕事を請け負ってくれるもの。人が直接操作することなく、定められた任務を黙々とこなす存在。それがロボットだ。
かつては工場などの限られた場所で、限られた用途のみに使われてきたが、今ではどこでもロボットを見ることができる。図書館、病院、商店街、家庭内――この学校でも、数多くのロボットが使用されている。
人間を上回る能力を持ち、簡易ながらも思考を持つロボットの普及には、大きな批判も伴った。ロボットこそがやがて現代社会を滅ぼすなどという弁論が、まことしやかに語られた時期すらある。
しかし、それもすぐに廃れた。
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が、第一条に反する場合は、この限りではない。
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。
全てのロボットは、『ロボット工学三原則』を基準に、その電子頭脳が製作されている。どのような状況でもこれに沿って行動し、違反することは決してない。最も優先度の高い第一条の強制力については、これはもう絶対だ。どこがどれだけ狂おうと、第一条を破る前にロボットは完全に停止する。
安全で便利で丈夫。それが保障されたロボットが社会に溶け込むのは、そう時間のかかることではなかった。今では、食事に箸を使うのと同じくらい自然に、人々はロボットを使っている。
特に、この光哲市は、ロボット研究に関する国家施設すら配されている、謂わばロボット都市である。ロボットの普及率は、首都を除けば全国でも類を見ないほどに高い。
しかし英士は、その時代の流れに逆行する存在として、校内でも多少有名になるくらいの人間だった。
「やっぱり、どこか信頼しきれないんだよなぁ。頼り切った生活に慣れるのが怖いってのもあるし」
徒歩でも通学はできるし、鉛筆とノートでも授業についていける。不自由がないわけではないが、やってやれないことでもない。それに、ロボットに頼らない分、自分の体力や記憶力が周りの人間より勝っていると感じる瞬間も多々あった。
「日々是精進。怠けることを覚えたら終わりだ。いざって時に、頼りになるのは自分の身体だけなんだから」
強がりでも何でもなく、これは英士の本心、というか持論であった。
嫌いという感情に理屈を被せているところは否めないが、自分でもそれなりの説得力はあると確信している。
「しかし哀しいことだよな。今のところその精進の成果は、パシリにおいてばかり発揮されてるんだから」
「うぐ……」
痛いところを突かれ、英士は返事に窮する。
優秀な警備ロボットや、ベテランの警察犬並みの性能を誇る追跡ユニットなどの配備が進む今、光哲市の治安は非常に良い状態が維持されている。
つい先日、空き巣騒ぎがあったという話だが、発覚から三十分も経たずに犯人が捕まった。そういう世の中なのだ。それ自体は喜ばしいことだが、平和な毎日を享受する以上、英士の身体能力が、ヒーローのように披露される機会はほぼない。
現状、英士の腕力は荷物運びに、脚力は購買の限定プリン争奪(代理)に利用されることがほとんどだった。そういう不毛なことこそロボットにやらせるべきだと英士は主張するが、頭を下げられると文句を垂れながらも断れないのが、英士の性格である。姉にそう教育された。
「とはいえ、だ。生身こそが正義みたいなおまえの主張、納得できないわけでもない」
「……どうしたよ、急に」
靖久の唐突な路線転換に、英士は疑惑の眼差しを向ける。こういった場合、靖久が碌な発想をすることは滅多にない。しかし、稀にまともなことも言ってみせるのが靖久の一筋縄ではいかないところだ。
ふふんと眼鏡の位置を直す靖久に、英士はひとまず耳を傾けることにした。
「写真を見るのと、現物を見るのは違うだろう? 機械の目ってのは完璧じゃない」
「それは……まあ、な。完璧だったら全世界の観光地が揃って閑古鳥だ」
「いや、観光地はどうでもいい」
「は?」
「僕は女の子の話をしてるんだ」
「……さいですか」
稀に、まともなことを言ってみせるのが靖久である。つまり、これがいつもの彼の姿だ。意外でも何でもなかった。
「だからな、英士。教室抜け出すぞ」
「……はあ?」
しかし英士には、続く言葉を予想することはできなかった。
銀縁眼鏡の奥で瞳を輝かせながら、靖久が突拍子もない提案を挙げる。英士はしばらくその発言の意図するところを理解しようと努力したが、結局それは徒労に終わった。
「あー……悪いけど、俺には意味がわからない」
そう返すのが精一杯である。靖久はチッチッと人差し指を振って繰り返した。
「だから、教室抜け出すんだよ。今朝、ナイスバディな美女と、ミステリアスな美少女を職員室近くで見たんだって。美少女はウチの制服着てたし、転校生だと思うんだよなぁ」
「……おまえは本ッ当に目ざといな」
これが優等生で通っているのだから、世間の評価というのは当てにならない。英士はげんなりした顔で、靖久を見つめた。
「っつーかね、優等生さん。自習だからって教室出るのは基本的に禁止だぞ。馬鹿なこと言ってないで……」
「馬鹿はおまえだ、英士。いいかい、僕が優等生をやっているのは、こういうときに勝手しても許してもらえる可能性が高いからだよ」
「悪い、おまえは馬鹿じゃなかった。ゲス野郎なんだな」
靖久はくっくと笑っただけで否定はしなかった。
「……さあ、英士。生身の素晴らしさを堪能しに行こうじゃないか」
完全なあてこすりである。ぶん殴ってやろうかという衝動に駆られたが、流石にそれは大人げないと思い直す。
結局、英士は靖久の頭を軽くはたいただけで、こう言った。
「見つかっても、言い訳はおまえがしろよ」
実際、美女と美少女に興味はある。
英士は健全な男子高校生であった。
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