ヒスイの三原則

かんごろう

プロローグ

プロローグ

 息を切らせた一人の男が、細い路地に飛び込んだ。

 くたびれたカーゴパンツに、糸のほつれが目立つ上着。決して裕福ではない暮らしぶりが、その身なりから滲み出ている。

 男はマスクを強引に剥ぎ取り、ポケットに突っ込んだ。


「ここまで来れば……」


 上着の内ポケットに入った獲物はせいぜい数グラム。それがとんでもなく重い。誰にも見られていないとは思うが、確証はない。早く現場を離れたいばかりに駆け出してしまったのは、良くなかったかもしれない。

 彼は数度深呼吸をしてから、改めて大通りに戻った。


 何事もなかったように振る舞うのが一番だ。仕事帰りの空き巣とは、そういうものである。


「そこのあなた。ちょっとよろしいかしら」


 不意にかけられた声に、男はびくりと肩を跳ねさせた。

 すぐにその行動を後悔するが、そこで動きを止めるのはさらにまずい。

 彼は、「はい?」と努めて平静に返事をした。


 彼の脇に立っていたのは、ブロンドの髪の女だった。二十代後半から三十代前半といったところか。成熟した美貌の持ち主である。

 警戒心を想起させる要素は皆無であり、彼はひとまず安堵する。


「どうしました?」


 改めて聞き直したのは余裕の現れだ。

 女がにっこりと微笑む。


「何やら、顔色が悪いようでしたから。ご無理をなさっているのでは?」


「……いえ、まったくそんなことは。大丈夫ですよ。心配してくれるのはありがたいですが」


 赤の他人の顔色程度で付きまとって来るなよ。いらいらと煮え立つ腹の内を、表に出さないようにするのも一苦労である。さっさとここから離れたい。彼の内にあるのは、その一心のみだった。


「でも、本当に酷いのよ。汗も凄いし」


「それは急いでいたから……」


「目がさっきから、せわしなく動いてる。良い精神状態とは言えないわ」


「……わかりましたよ。近いうちに病院にでも行くとします」


 なかなかしつこい女である。こんな話に付き合っている余裕はない。

 彼は心中で毒づきながら、話はこれで終わりだとばかりに踵を返して歩き出した。


「何か、やましいことでも抱えているんじゃないかしら」


 彼女と話をしていたのは、ほんの数十秒だった。たったそれだけの時間に過ぎなかった。

 にも関わらず、彼が歩き出した先には、バリケードが形成されていた。

 彼の腰くらいの高さの円筒型が三体、忽然と現れていたのだ。


 そしてその後ろには 銀色の長い髪に翠緑色の瞳の少女が佇んでいた。


「うっ……!」


 少女の無機質で淡泊な瞳が、男を真っ直ぐに見据えている。

 それだけではない。三対の赤いセンサーの光が、しかと男を捉えている。

 この銀色の円筒たちも、彼を視ているのだ。


「ここから数百メートルのアパートで通報があった。登録されていない人間の不審な行動を、清掃用のロボットが感知している。貴方の容姿はその人間の特徴と合致する点が多く見受けられる。故に、私は貴方に同行を要請する。既に付近一帯の警備ロボットへの命令権は掌握している。逃走は無意味だ」


 全てを聞くことなく、彼は走り出した。目の前の銀色の円筒たちに向かって、である。

 このようなずんぐりしたドラム缶、蹴散らして行けばいい。警備ロボットだか何だか知らないが、配線を切ればただの金属の塊だ。そして、華奢な少女など物の数にも入らない。

 彼はナイフを抜いて、立ちはだかる警備ロボットに迫った。


 ぷしゅぅぅぅぅ!


「な、何だ!?」


 しかし、ナイフがロボットに触れる寸前、警備ロボットたちは白い煙を噴射した。

視界が覆われ、彼は泡を食ってナイフを振り回す。もちろん、それが何かを捉えたような手応えは無かった。


「三原則の第三条。ロボットは自己を守る。身の危険は自分で対処するわよ、この子たちは」


 先の女の、涼しげな声が聞こえる。しかし、彼はそれを落ち着いて聞けるような、図太い神経を持ってはいなかった。


「確定ね。捕まえなさい」


「了解した。総員、ケースEにて対処」


 少女の周囲に、緑色の光で構成されたキーボードのようなものが浮かび上がる。号令はあくまで形式的なものであり、彼女がキーに触れると同時に命令は走っていた。


「状況開始」


 警備ロボ達が男に向かって、胴体の中ほどから拳大の砲弾を発射した。

 それは彼にぶつかる直前に、ポンと音を立てて弾けた。展開された白いネットが、彼に覆い被さる。


「くそ、やめろ! ロボットだろうが! 人の言うことを聞け!」


「無理よ。人の命令に従うのは三原則の第二条だけど、今はこちらの命令が有効。優先順位があるんだから、あなたが命令を上書きすることはできないわ」


 ネットはゴムのように伸び縮みし、刃を立てても切断できる様子はない。加えて、べたべたと身体に付着するネットに、身動きも制限される。

 彼には既に、脱出する術はなかった。


「安心しなさい。第一条があるから、この子たちがあなたに危害を加えることはないわ。その辺は、お役所に行って、人間様に裁いてもらうことね」


 女がすぐ隣まで歩いてきて、にんまりと笑う。理知的な美貌に似合わない、癇に障る笑い方だった。

 完全に虚仮にされた男は、憎悪を込めて彼女を睨む。同時に、彼の右手が僅かに動いた。


「ケースG、実行」


 男が手首のスナップだけで投げつけたナイフは、しかし、ネットに引っ掛かって外に飛ぶことはなかった。

 もっとも、ネットを抜けたとして、女に当たることもなかっただろう。

 銀髪の少女の命令が走ると同時に、一体の警備ロボが女の前に立ちはだかったのだ。その身を盾にしたのである。


「ロボットは、人間に危害が及ぶのを看過しないわ。それも第一条よ」


 女は動揺した様子もなく、そんなことを口にした。

 しかし、あの瞬間を看過しなかったのは警備ロボではなく、銀髪の少女だった。

 それではまるで――


「なーんて、ね。さあ、行きましょうか」


 ポン、と警備ロボットの頭を叩いて、彼女は少女を伴って去っていく。


「これでひとまずの義理は果たしたわ。しばらくは、自由にさせてもらわなくちゃね」


 誰にともなく呟く女と、無表情でそれに従う少女。


 彼は、半ば茫然と、その不思議な二人組を見送るほかなかった。

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