ようこそ夜の底

ANNA

第1話 遊びの国の田中(1)

 長くこの大都会東京の地下にあると噂されてきた街の存在を政府が正式に認めてからおよそ三十年が経っていた。

 層龍、と呼ばれるその地下街は、もはや街というよりも一つの国家であり、政府でさえその政治には介入できないともいう。しかしながら層龍という街が観光産業に力を入れているというのはここ最近では特に有名な話で、アラフォー手前のサラリーマンである田中の耳にもやたらとその街の評価は入ってきた。


 しかし怪しいだろう。

 独特のコミュニティを築いてきた地下街。日本政府でさえまともに介入ができず、なんでも層龍には層龍の法律があり治外法権だとかなんだとか。

 一生安泰を人生のテーマとして掲げてきた田中にとっては無縁の場所であるはずだった。

 だが今日ばかりは、上司の失敗を押し付けられ、会社からの評価を酷く落として途方に暮れていた。

 あぁもう、どうとでもなれ。そう思ってしまった。約三十年前に品川駅の近くにできた地下街への出入り口に、つい向かってしまっていたのだ。





 「す……すごい……」

田中は、そう声を漏らした。

 信頼していた上司から業務上の失敗を全て押し付けられ、自棄になって来てしまったのだ。

 層龍と呼ばれる、得体の知れない観光地に。

 スマートフォンを街に入る時に取り上げられてしまったのには驚いたが、雰囲気を守るためだと言われた理由に納得ができた。街の景観はそう、まるで時代劇で見る江戸時代の街並みのようだ。

 観光客は確かにいるはずなのに写真がなかなかネット上に掲載されないのはこうした理由があるのだと、田中は感嘆のため息をつきながら辺りを見回した。

 層龍への行き方は、地上にある出入り口から大型のエレベーターでただ真下に向かうだけで、五分もかからなかった。その五分弱の間にガイドと思われる着物姿の女性の説明で、この街の大枠はなんとなく掴めたような気もする、という程度だ。

 まず、この街は四つの区域に分かれている。

 街の中心であり、政治家たちの集まる北雹ほくひょう

 観光産業の主力を担う、商人の街、西斑せいはん

 観光客からも住民からも支持を集める、女性たちが夜を彩る南咲なんざき

 そして層龍の用心棒を引き受ける“雨照うしょう団”の団員たちの寝床がある廃れた田舎の東賎とうせん

 この四区域に分かれているものの、層龍は住民同士仲が良いのだとか。しかしガイドいわく、北雹だけは現在の議長が層龍史上初めて地上の大学に通っていたことのある若い青年で、年配の議員たちからいびられているため議会の雰囲気は最悪だということだったが。


 層龍の観光にあたっては、北雹の集会場で発行される許可証が必要ということもエレベーター内で聞いていた。他の観光客に着いていき集会場へ行くと、周囲は江戸時代の景観で統一されているにも関わらず、そこだけ西洋の文化をふんだんに取り入れた建築様式になっていていやに目を引く。

 集会場内もとても綺麗で、あちらこちらでスーツを着た男性たちが談笑している。許可証発行はこちら、という簡易的なメッセージが掲げられている窓口を捌いている女性は、街で見かけた人々と同じく着物姿だ。

 田中が発行のための列に並んでいると、奥の方の扉から一人の男性が出てきた。端正な顔立ちで、手足の長い、まだ若そうな好青年だ。色素の薄い瞳の茶色さが、離れた距離からでもなんとなく分かる。

 しかしその青年が出てきた途端、スーツ姿の男性たちは一斉に黙ってしまった。それどころか、スーツを着ている男性陣の中でも年配である数名は冷やかすように笑みを浮かべている。

 何やら嫌な雰囲気を感じ、田中は前を向いた。

 次は自分の番だ。早く発行してもらって、観光を楽しんで帰ろう。そう思ったが、前の女性が何やら受付と揉めている。聞き耳を立ててみると、女性は以前にも層龍へ観光に来たことがあり、その際に南咲で働く女と揉めたのだとか。雨照団の団長に確認を取るから待ってほしいと言われ、女性は分かりやすく苛立っていた。

 時間がかかるのならまずは自分の許可証を発行してほしいのだがうまく言い出せず、田中が俯いたその時のことだった。すみません、と声をかけられ、慌てて顔を上げる。真隣に立っていたのは、あの青年だった。

「ぅ、え? あ……はい!」

「失礼、層龍議長の釜ノ屋と申します。お待たせしてしまっているようなのでこちらで発行いたしますね」

「あ……どうも」

青年——釜ノ屋は堂々とした態度で窓口に入り、田中に名前や住所、生年月日など必要な情報を尋ねていく。

「あの……議長さんなのにこういうこともするんですか?」

「そうですね。議長なのにやらされるんですよ、こういう雑用じみたことはね、生意気な若造にさせたがるものでしょう、年だけ重ねた人たちっていうのは」

淡々と仕事をこなす笑みは美しいが、吐き出す言葉は単語一つひとつに鋭い棘を纏っている。なるほどこれは、議会の雰囲気が最悪と言われてもおかしくはない。若いのに苦労しているんだなと、田中は目の前の青年を見て苦笑した。

 そういえば層龍で初めて地上の大学に通ったと聞いていた。この地下街の住民は義務教育を受けていないはずだが、どのようにして大学に入ったのか、何を学んだのか、興味本位で尋ねてみようと口を開く。

「あの、議長さんは——」

 しかし、まるでそれを遮るように、突然集会場内が再び騒がしくなる。先ほどのような談笑ではない。人々の視線は、集会場の出入り口に注がれている。重厚な扉が開かれた先には、屈強な男たちを大勢引き連れた、ずいぶんと可愛らしい顔立ちの若い女性が立っていた。彼女は受付の方へ遠慮なく向かい、もちろん男たちもその後ろに続く。

「こっちにはあまり来るなと言ったはずだ」

呆れたように、釜ノ屋が口を開いてそう言った。女性は笑って「呼び出されたんだよ」と言い返す。どこか砕けた雰囲気を感じ取り、住民同士の仲は良いという話を田中は思い出した。

「あんたまた来てくれたの。うちの可愛い女の子と大揉めしたってのにね。そんなにこの街が気に入ってくれたんなら嬉しいよ」

彼女は楽しげに笑ったまま、許可証を発行されず足止めをくらい続けている女性に話しかける。嫌味のようにも受け止められそうな言い回しだが、浮かべる笑顔があまりにも純粋で、本心で思ったことをそのまま告げているのだろうと田中は本能的に感じ取った。きっと彼女は、人が好きなんだろうな、とも。

「まぁね、いいんじゃないかな」

月雨つきさめ

月雨、と、彼女はそう呼ばれた。エレベーター内で説明を受けた雨照団の団長。団長は代々月雨の名を受け継ぎ、現在は二十九代目になるとか。団長の決め方は候補者が全員一斉に腹部に短刀を突き刺し、一番深くまで刺せた者が襲名するとガイドは言っていたが、この可憐な女性がそれをやったのかと思うと田中は自身の背筋が冷えるのを感じた。しかも、こんなにも天真爛漫な表情で笑うこの、若い女性が。

「貴嶺は相変わらずお堅いな。私が責任取ってやるから見逃してやりなよ」

貴嶺と呼ばれたのは間違いなく釜ノ屋で、彼は月雨には逆らえないのか「勝手にしろ」と眉間に皺を寄せた。

「だってさ。感謝してよねあんた。まぁ今回は南咲には近づかないことだね。あ、でもさ! 西斑の酒蔵で最近新しい酒ができたみたいだよ。よかったら行ってみてよ、あんた酒好きだったよね?」

ぺらぺらと嬉しそうに話す月雨に圧倒され、許可証を発行された女性は黙って頷きながら、その場から逃れるように集会場を出て行った。

「たーかーねーくん。手止まってっけど。お客さん待たせるなんて議長サマも大したことないよね。ごめんねあんた…あ、初対面であんたじゃ失礼か。えーと…田中さん。こんなとこまで来てくれてありがとね」

「い…いえ……」

「月雨、もう南咲の開く時間だ」

釜ノ屋が「早く行け」と念を込めて集会場の出入り口に目配せをすると、月雨は笑って頷き「それじゃあね」と、存外素直に言われた通り従った。

 男たちを引き連れ、外へ繰り出す様は圧巻だ。

「……あの、彼女は」

「あれは観光資源ではないのでね。あまり気になさらないでください」

 仲が良いのか悪いのか、田中には見当がつかなかった。

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