第141話 死期近く、月を見る。
地下都市で生まれ、育った。
自分が地球という丸い星に住んでいるという知識は持っていた。外は宇宙で、真空と太陽と月と星があるらしい。
父が生前に言っていた。
「俺が若い頃には、まだ宇宙を見ることができた。昼には天空に眩しい太陽が輝き、夜には朧な月が昇った。空気が澄んでいる夜には、美しい星々の瞬きを見ることもできた。中秋の名月を見ながら、酒を飲む習慣があった。いい時代だった」
戦争がすべてを変えてしまった。
地上は汚れきって、脊椎動物が住める場所ではなくなった。
戦火を逃れた人々は、地下シェルターを掘り進め、地下深くに都市を創建して生き延びた。
父と母は地上を知っている世代だった。
自分は知らない。
両親はいつも地上を懐かしがっていた。
思い出を大切そうに語っていた。
美しい湖でレインボートラウトを釣った。
高い山に登り、荘厳な雲海を見た。
澄んだ渓流のそばでキャンプし、夜に銀河と月と流れ星を見た……。
羨ましかった。自分にはけっして体験できない。
自分は狭苦しく、圧迫感のある地下でしか暮らしたことがない。
四畳半のワンルームで妻とふたりの子どもと生活している。
頭を天井にぶつけないように気をつけてトンネルを歩き、職場に通う。
人工太陽の管理をするのが仕事だ。
「あんなものは太陽じゃないわ。ただの大きなだけの電球よ」と母が蔑んだ人工太陽。
黙っていてほしかった。
自分には本物の太陽と月を見ることはできないのだ。
父と母の世代が戦争を起こし、地上を汚染したくせに、昔はよかったなどと語っている。黙れ、と言いたかった。子孫のことを少しでも考えれば、愚かな戦争など起こさなかったはずだ。大人たちは無責任だ、とずっと思っていた。
戦後、地上を除染し、もう一度住めるようにする試みが行われた。
だが、汚染は広く深く土に沁み込み、除去には途方もない月日と金額がかかり、事実上不可能だという結論が出た。
人類には地下都市に住む以外の選択肢は残っていなかった。
多くの獣、鳥、魚が滅び、甦ることはなかった。
自分は人工太陽を細心に管理しつづけ、わずかな賃金を得て、妻子を養った。
子どもたちには、人工太陽がいかに美しいか、心を込めて管理されているかを語った。
本当の太陽や月のことなどひと言も伝えなかった。
地下都市でしか生きられない子に、見ることのできないものを教えても、なんにもならない。
それでも学校で習ってきて、月が見たいなどと言う。
自分も見てみたいという気持ちを捨て去ることはできなかった。
父と母が行った月見というものをしてみたかった。
虚しい。
自分は働きつづけた。他になすべきことを知らなかった。
ある日、職場で倒れた。
医師から余命半年であると宣告された。
そうか、もう自分は長くないのか……。
遺書をしたため、妻子の寝顔を眺めた後、住み慣れたワンルームを出た。
長い長い階段を昇った。
ときには朽ちかけた鉄の梯子を。
そして、石の扉を開け、地上に出た。
ここの空気と土に触れると、数日で死ぬ。かまわなかった。
辺りは暗かった。
これが夜というものか、と思った。
天空を見た。
微かに明るい円が浮かんでいた。
あれが月か……。
リュックサックから酒瓶を取り出した。
今夜は浴びるほど酒を飲もう。
そして朝を待ち、太陽を見よう。
我が人生に悔いはない。
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