第138話 無敵の人あらば敵百万と雖も恐るるに足らず

 楚軍は垓下城に追いつめられていた。

 なぜ追いつめられたのか、わたしにはわかっていた。

 羽将軍が受け身に回ってしまったからだ。

 将軍は先頭に立って兵を率いてこそ輝く人。だが、垓下の会戦で通常の指揮官のように兵に戦わせ、自身は後衛にいた。これが敗因だ。

 漢軍は四十万の大軍。対して楚軍は十万と劣勢。

 兵対兵の戦いになってしまえば勝ち目はない。先鋒を討たれ、包囲され、逃げる兵の流れができてしまって、楚軍は敗退した。

 垓下城に残っている楚兵は四万にも満たないくらいに減っている。

 だが、兵数は問題ではない。

 羽将軍がいれば、兵の数など問題ではないのだ。

 なぜなら、将軍は無敵の人だから。

 項羽が先頭に立つ軍は必ず勝つ。

 わたしはそう信じていた。

 垓下城を包囲した漢軍の間から楚歌が湧き上がった。

 楚の祭りの歌、田植えの歌、収穫を祝う歌、戦いの歌……。

 それを聴く羽将軍の顔は暗かった。

「漢軍はすでに楚を占領したのか。敵に楚の人間のなんと多いことか」と嘆いた。

 将軍は悲観的になっている。

 心理的なゆさぶりに弱い。

 こんな歌で気落ちしてはいけない。

 羽将軍はなにも考えず、太刀を持ち、馬を疾駆させているときが一番輝くのだ。

「力は山を抜き 気は世を蓋う

 時利あらず 騅逝かず

 騅逝かざるを 奈何すべき

 虞や虞や 汝を奈何せん」

 彼は弱気な詩を読んだ。

「将軍が乗れば、騅は行きます」とわたしは言った。騅は名馬だ。

「虞よ、なにを言う。漢の勢いはもう止めることはできない」

「無敵の人あらば敵百万と雖も恐るるに足らず」とわたしは言った。

 羽将軍は目をぱちくりと開け、わたしの言葉を聞いていた。

「無敵の人とは羽将軍のことです。項羽が行くところ敵なし。漢軍四十万など紙切れのように切り裂いて進めばよいのです。先頭に立って全兵を率い、まっしぐらに劉邦をめざしてください。敵将の首を刎ねてしまえば、この戦いは終わります」

「虞よ、私は逃げることを考えていた」

「生きている限り戦ってください。必ず道は開けるでしょう」

 わたしは楽観的だった。

 羽将軍が生きていれば、最後には勝てるのだ。

 そう信じていた。

「よし、戦おう」

 羽将軍の体内に闘気が満ち、周りにいる疲れ切った兵たちを驚かせた。

「私は敵中に突撃する。私は死なないだろう。私の前に立つ者は誰であろうと死ぬだろう」

 将軍は言った。そのとおりだと私は思った。楚兵の誰もがそう思っただろう。兵にも闘気が広がって、垓下城はオーラで満ちた。

 羽将軍は騅に乗り、城門を開け、突進した。

 楚歌を歌っていた漢兵はあっけに取られていた。もう戦いは終わったと思っていたようだ。

 たちまち血しぶきが上がり、首が十個二十個と飛んだ。

 楚軍は羽将軍を先頭にした線となり、面である漢軍をふたつに切り裂き始めた。赤い血の線が敵中に生まれ、長く伸びていった。線はけっして止まらなかった。

 韓信、孔藂、陳賀の軍に包囲されているのだが、包囲は無敵の人には意味がない。押し返すことはおろか、止めることもできない。羽将軍はそういう人なのだ。彼が戦えば、立ち向かう人は死ぬしかない。天下無双どころか、歴史上無双の人なのだ。

 垓下城を幾重にも包囲していた漢軍は浮足立ち、その陣形を崩した。

 楚歌は止み、楚兵の鬨と漢兵の悲鳴がそれに替わった。

 羽将軍は敵の中軍に達しようとしていた。

 そこには劉邦がいるはずだ。

 敵は敗走し始めた。

 どんな大軍も将を討たれてしまえば終わりだ。

 地の果てまで劉邦を追いましょう。

 この戦いで敵将を討てなかったら、羽将軍にそう言おうと決めた。

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