第122話 売れない中年漫画家の介護生活

 僕はベテラン漫画家だ。

 ベテランと言っても、少しも威張れるところはない。

 ヒット作をひとつも持っていないのだ。

 月刊少年ヨンデーを発表誌として、そこそこ売れる程度の作品をコツコツと描きつづけてきた。

 連載はいつも、人気がなくなって打ち切りで終わる。

 もっとも売れた漫画は『めざせ甲子園!』という野球漫画で、9巻まで出版できた。

 10巻を出せた漫画はない。

 野球漫画しか描けない。

 編集者からは、もっと面白い漫画を描いてもらわないと、仕事をあげられなくなりますよ、と脅かされている。

 いつまで漫画家としてやっていけるか心配だ。

 苦しみしかない創作生活。

 いまさら他の仕事もできない。

 生きていくのは大変だ。


 そんな僕は近年、ますます苦しくなっている。

 仕事だけでなく、プライベートでも困難が降りかかってきたのだ。

 父と母の介護である。

 僕はひとり息子で、実家で両親とともに暮らしている。

 親が介護を必要とするようになり、仕事をつづけるのがさらにむずかしくなっている。


 母は10年ほど前に膝を悪くして、ほとんど外出をしなくなった。

 毎日ソファに座って、テレビを見るばかりの生活を送っていた。

 そんな刺激の少ない暮らしをしているうちに、認知症が進んできたのだ。

 いまでは短期記憶をほとんど失い、同じ言葉を何度も繰り返すようになっている。


「私の財布はどこにあるの?」

「母さんはもう財布を持っていないよ。買い物ができなくなったから、お金の管理はすべて僕がやっているんだ」

「そうだったね。買い物をしないからね」

「そうだよ。財布の心配はしないでいいから」

「私の財布はどこにあるの?」

「だから、母さんはもう財布を持っていないんだよ」

「泥棒に捕られたのかも。警察に電話して」

「お金の管理は僕がやっているの。財布は盗まれていないから」

「そうだったね。警察に電話しなくてもいいんだね」

「そうだよ。だいじょうぶ」

「私の財布はどこにあるの?」


 母との会話は延々と繰り返される。

 かなり疲れる。

「うるさい! もう黙っていてくれ!」と叫びたくなるが、それをやるとさらに大変なことになる。

「私の財布が盗まれた。おまえがどこかに隠したのね。うわああああ、出して、すぐに私の財布を返して!」

 母が叫び出すことになる。

 何度もそういうことになって、僕は学習した。

 母にはできるだけやさしく接しなければならないのだ。

 そうしなければ、泣き叫ばれて、僕も母も疲れ果てることになる。


 父は4年前まで元気だった。

 お酒が好きで、長年の間、休肝日もなく飲みつづけていた。

 それが積もり積もって、原因になったのだと思う。

 脳梗塞で倒れてしまったのだ。

 僕が救急車を呼んだ。

 半年間の入院生活をして、リハビリにも努めたが、父の脚は半分麻痺したまま、とうとう元に戻らなかった。

 なんとか杖をついて歩けるが、介護者がいないと、危なっかしくて仕方がない。

 倒れて骨折でもされたら、寝たきりになってしまうだろう。

 僕が介護をして、トイレに連れて行っている。


 父と母はもう自力で生きていくことができない。

 ふたりに薬を飲ませ、食事を与え、家の掃除をし、洗濯をするのは僕の役目だ。

 介護サービスを受けてはいるが、僕以上に両親の面倒を見てあげられる者はいない。

 ふたりとも介護保険を利用し、週4日、デイサービスセンターへ通っている。

 両親がセンターへ行って留守のときに、僕は懸命に漫画を描いている。

 しかし、両親が帰ってきたら、仕事をするのはかなり困難になる。

 不可能になると言っても過言ではない。

 僕は漫画を描くのを中断し、父と母の介護をして、へとへとになる。

 夜も気が休まる暇がない。

 夜中に最低でも1回は父をトイレに連れて行かなければならないし、母が突然わめき出すこともある。


 こんな介護生活をしながらも、なんとか僕は漫画を描きつづけている。

 苦しいが、漫画を描くのは僕のライフワークで、生きがいだ。

 やめたくない。

 しかし最近、自分の身体もおかしくなってきて、ピンチを迎えている。

 長年の持病である腱鞘炎や腰痛が悪化し、執筆がきつくなってきた。

 編集者は僕の身体のケアまではしてくれない。

 売れない漫画家を守ってくれたりはしない。

 僕は唯一無二の存在ではなく、いくらでも代わりがいるレベルの漫画家でしかない。

 締め切りを守れなくなったら、容赦なく捨てられるだろう。

 がんばって雑誌に載せてもらえる最低限度以上のクオリティの漫画を描きつづけるしかない。

 だが、それをつづけるのは不可能ではないか、と絶望することが増えている。

 いま描いている連載漫画も、打ち切りが決定し、あと5回で終わることが決まっている。


 この僕の介護生活の話に「オチ」はない。

「つづく」があるだけだ。

 父が死に、母が死ぬまで、介護はつづく。

 両親の年金は少なく、僕の本はあまり売れなくて、収入は少ない。

 父と母を介護施設に入れるほどのお金はないのだ。

 暗い話を聞かせてすまない。

 僕は自分を育ててくれた父と母を大切に思っている。

 この話に救いがあるとしたら、親への愛情だけだ。

 僕は父と母が安らかに眠る日まで、なんとか腱鞘炎と腰痛に打ち勝ち、がんばってこの介護と漫画執筆の生活をつづけたいと思っている……。


 というリアルな介護漫画の制作が僕のいまの仕事だ。

 最後に描いた野球漫画が打ち切りになった後、「先生の体験を活かして、介護の漫画を描いてみませんか?」と僕の担当編集者が提案してくれた。

 最初は私生活を切り売りするのが嫌で気乗りしなかったが、他にネタがあるわけでもなかった。

『売れない中年漫画家の介護生活』を僕は連載し始めた。

 売れないだろうなあ、と予想していたのだが、1巻は意外なほど売れた。なにが当たるかわからないものだ。

 僕は腱鞘炎と腰痛と戦いながら、介護し、漫画を描きつづけている。

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