第95話 長い橋

 K市とT市は大きな川でさえぎられていた。1本の長い橋がその間をつないでいる。

 私は午前7時にT市の川岸近くにある自宅を出発し、ヘラブナ釣りの道具を持って橋を渡り、K市側の河川敷にある池で釣りを楽しんだ。

 5月の気持ちのいい晴れた日曜日だった。風薫る5月。新緑を見ながら、私は10枚のヘラブナを釣った。

 最後の1枚は軽く尺を超えていた。網ですくったその魚は恨めしそうに私を見ていた。年老いた魚だった。その日最大の魚をスマホで写真撮影してから、池に放った。

 午後4時に私はすっかり満足して納竿し、帰路についた。

 長い橋を歩いて渡り始めた。

 太陽はまだ高く、私は元気だった。

 明日は仕事だ。帰宅し、休憩し、妻とともに夕食を食べ、少しばかり酒を飲もうと思っていた。

 おかしいなと思ったのは、長い橋の半ばにさしかかったころのことだった。距離感がおかしい。橋の全長は2キロメートルほどのはずだが、半ばにいるのに、橋の終点まで2キロぐらいに見えた。

 私は少し足を速めて歩いた。

 早く帰って、ゆっくりと休みたかった。

 ざっ、ざっ、ざっと歩いた。体感で30分ほどは歩いた。

 ところが、いっこうに橋を渡り切ることができないのだ。

 終点はますます遠のいているように見えた。

 3キロメートルぐらい離れているように感じた。

 後ろを見ると、K市側の橋の終点も3キロメートルほど遠くにあるようだ。

 2キロメートルの長さの橋が、6キロに見えているということだ。

 太陽は沈みかけ、空をだいだい色に染めていた。美しい夕焼けだ。

 しかし、私はその夕暮れの風景を楽しむゆとりを失くしていた。パニックに陥り、走ってT市へと向かった。

 たどり着くどころか、橋のたもとはますます遠くなった。

「うわーっ」と私は叫んでしまった。

 車は私の横をびゅんびゅんと通り過ぎ、対岸へたどり着いているように見えた。

 私は走っても走ってもたどり着くことができなかった。いつまで経っても橋の半ばにいた。

 私はズボンのポケットからスマホを取り出し、自宅に連絡した。

「おかけになった電話番号は電源が入っていないか、電波が届かないところにあります」と録音された音声が言った。

 そんな莫迦なことがあるか、と私は思った。この電話番号は家の固定電話の番号なのだ。ここと家の間にはさえぎるビルも山もない。電波は届くはずだ。

 しかし、スマホは機械的に音声をくり返すだけだった。

 私はスマホをまじまじと見た。

 圏外になっていた。

 そんな莫迦な!

 ここは関東平野の真ん中だぞ?

 太陽は半分以上、地平線の下に隠れていた。

 私は自宅への最短距離をあきらめ、スマホをポケットに仕舞い、K市側へと歩き始めた。

 K市の駅へ行き、電車で帰ろうと思ったのだ。

 しかし、K市側の橋の終点も遠くなるばかりだった。

 もう橋の長さが10キロメートルを超えているように見える。

 そして日が暮れた。

 タクシーが通りかかったので、私は手を上げた。

 空車だったが、タクシーは止まってはくれなかった。

 もう空には満月が輝き、星が瞬いていた。

 私はリュックサックからペットボトルのお茶を取り出し、ひと口飲んだ。

 まだ橋の半ばにいる。

 どちらへ行けばいいんだ?

 私はまたスマホを取り出し、今日最後に釣った魚の写真を見た。恨めしそうな目をした魚だ。早く水の中に帰りたそうな目をしている。

 私は撮影したことを後悔した。写真なんか撮らないで、すぐに池へ帰してやるべきだったのだ。

 理屈はわからないが、私はそのヘラブナに呪われてしまったのだと悟った。

 言うなれば、私は陸に上げられてしまった魚なのだ。自力で池に戻ることはできない。

 あたりはすっかり暗くなり、橋の終点はまったく見えなくなっていた……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る