第56話 つかのまの緑の大陸

「南極大陸は、前世紀には氷の大陸だったのよ」とお母さんが言った。

 ぼくには氷の大陸というのがどういうものか、うまく想像できない。氷が固体になった水のことだというぐらいは知っている。でもこの草原と田畑に覆われた緑の南極大陸が、かつては氷の大陸だったと言われても、それを想像するのはむずかしい。

 南極大陸は緑の大陸であり、生命の大地だ。

「かつてはユーラシア大陸、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸、オーストラリア大陸に人は住んでいたの。でも今はもうそこは熱すぎて人が住めない熱波の大陸になってしまった。寒すぎて住めなかった南極大陸だけが、今は動物にとって適温の大陸なのよ」

 ぼくとお母さんは草原を散歩している。

 草原には小川が流れ、小魚が群れているのが見える。遠くに鹿が2頭立っていて、ぼくらに気づいて走り去った。

「今をせいいっぱい楽しんで生きなさい」とお母さんが哀しそうに言う。

「あなたが大人になる頃には、この南極大陸も熱すぎる大陸になってしまうのだから」

「南極も熱波の大陸になってしまうの?」

「そうよ」

「なんとかして、それを阻止しようよ。みんなで力を合わせてさ」

 ぼくは大きな声で言って、右手の握りこぶしを振り上げた。村のみんなと、隣村の人たちと、南極中の人たちが力を合わせたら、きっとなんだってできる。

 だけどお母さんはますます哀しそうに目を伏せた。

「そうできたら、どんなに素晴らしいことでしょうね」

「やろうよ。南極に住めなくなっちゃうなんて嫌だよ」

 美しい南極大陸。ここには人だけでなく、鳥や獣や魚や虫たちが息づき、色とりどりの花が咲き、緑が地平線のはるか彼方まで広がっている。

「あなたには残酷な事実だけど、地球高温化は不可逆で、誰にもどうすることもできないの。そう遠くない未来、地球は生命のない星になるのよ」

 信じられないことだけど、お母さんは嘘つきじゃない。

「そうなったら、ぼくはどこへ行けばいいの?」

「天国へ行くのよ」

「天国ってどこにあるの? どうすれば行けるの?」

「天国はねえ、空の上にあるのよ」

 お母さんが上を見る。そこにあるのは青々とした空と盛り上がった積乱雲だ。今日もゲリラ豪雨が降るのだろうか。確かに南極は年々暑くなっている。

「天国には何もしなくても行けるのよ。いつか命が終わったら、みんなが行ける国なの。平穏なところよ」

 天国か。氷の大陸も天国もどちらもうまく想像できない。

 お母さんがぼくをうしろから抱きしめた。

「今を存分に味わいなさい。つかのまの緑の大陸でいい思い出をつくるのよ」

「うん。わかったよ」

 ぼくはもがいてお母さんの腕をほどき、なぜだか泣きそうになりながら、草原をひた走った。

 丘を越えると、巨大な十字架、南極点クロスが見えた。

 かつては極寒の地だったというそこにも、氷はひとかけらも残っていない。

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