第57話 空き缶の上の小人
アイが14歳のときのことでした。
友だちと野原で遊んで家に帰ってきたら、お父さんとお母さんが大げんかをしていました。
お母さんは半狂乱になって、浮気とか離婚とか叫び、お父さんを非難していました。そして包丁を持ち、あんたを殺してわたしも死ぬ、と言いました。
アイはやめてーっと叫んだけれど、お母さんは包丁を突き出しました。その包丁はお父さんに奪われ、次の瞬間、お母さんの胸に突き刺さっていました。
アイは何がなんだかわからなくなり、お父さんに向かって突進していました。お父さんに殴り倒され、彼女は気を失いました。
気がついたときには、お父さんは姿を消していて、お母さんの亡骸が転がっていました。
それからしばらくの記憶がアイにはありません。
アイは人間なんてどうしようもない生き物だと思いました。
なんで人間なんかいるんだろう。
争ってばかりの醜い人間なんか世界からいなくなってしまえばいいんだ。
でも自分が死ぬことはできませんでした。
怖かったのです。
アイは物乞いをしながら世界を放浪しました。
えらいお坊さんがいるという修行場に行きました。
アイは絶望からの救いを求めていました。
修行場で教えを乞いたいと告げました。
女はここでは修行できないと言われて、えらいお坊さんに会うこともできずに、門前払いされました。
アイは旅をつづけました。
どこかにわたしを救ってくれる教えはないだろうか、と一縷の望みを抱いていました。
旅の途中でアイに小銭や食べ物を恵んでくれる人がいて、人間には本当に救いがないのか、彼女にはわからなくなっていました。
次の修行場では、アイは教祖さまに会うことができました。
彼女はお母さんがお父さんに殺された体験を話しました。
人間には業がある。前世の悪業がお父さんに罪を犯させ、前世の業がお母さんを死なせたのだ、と教祖さまは言いました。
ここで修行してあなたの業を清めなさい、と言われました。
アイは修行することにしました。
剃髪し、毎日修行場の掃除をし、座禅をしました。
でも苦しみは消えません。
修行をしたら前世の業は消えるのだろうかという疑問が、絶えず心に浮かびました。
前世の業が現世で罪を犯させ、来世でもまた悪行をしてしまうのではないかと思って、怖くなるばかりでした。
教祖さまにそのことを訴えても、あなたはまだ修行がたりないのだと言われるばかりでした。
アイはその修行場を離れました。
次の修行場では、教祖さまから人間は生まれつき悪の心を宿している罪深い生き物なのだと告げられました。
ここで修行して、心を無にしなさいと言われたので、アイはやってみることにしました。
そこではみんなが農耕をし、食べ物を平等に分け合って生きていました。
アイは農耕に打ち込み、心を無にしようとしました。
いっとき、アイは救われたように思えました。
でも教祖さまが亡くなられたとき、跡目争いが起きて、教団内部での醜い罵り合いを見てしまい、アイに絶望がよみがえりました。
彼女はまたさすらいの旅に出ました。
人間には救いなんてないんだという思いは、修行すればするほど強くなるばかりでした。
ある日、大きな川の広々とした河原で、アイは空き缶の上で寝ている小さな人を見つけました。
小さな人は穏やかな笑みを浮かべ、横に倒れた丸い空き缶の上で苦もなく寝転んでいました。
アイはこの小さな人になぜだか惹かれました。
今まで会っただれよりもえらい人のように思えました。
アイは自分の悩みを小さな人に伝えました。
ぼくにはきみを救うことはできない。でもぼくもつらいことがあって、悩みを忘れるために空き缶の上で寝ているんだ。隣にいてあげることはできるよ、と彼は言いました。
アイは小さな人の隣にドラム缶をゴロゴロと転がして運んできて、その上で寝てみました。
すぐに転がり落ちてしまいました。
ぼくもよく落ちたものだよ。空き缶の上でうまく寝られるようになるのに10年かかった、と小さな人は言いました。
アイはドラム缶の上で寝るという奇妙な修行をつづけました。
朝起きると、地面の上だったということばかりでした。
近くの村の人たちが、小さな人とアイに食べ物を分けてくれたので、生きていくことができました。
別に死んだってかまわないんだけど、とアイは思っていました。
ドラム缶の上での修行はつづきました。
その隣では小さな人が空き缶の上ですやすやと眠っています。
3年が経ち、1か月に1度は朝起きたときに地面に落ちずにドラム缶の上にいるようになっていました。
6年が経ち、それは1週間に1度になりました。
9年が経ち、2日に1度は朝になってもドラム缶の上にいるようになりました。
その頃になると、アイの心から苦悩はいつのまにか消え去っていて、毎日の修行に無心で集中できるようになっていました。
小さな人は空き缶の上でにこにこと笑っていました。
10年め、ついに毎日連続してドラム缶の上で寝つづけることができるようになりました。
師匠、やりました、とアイは言いました。
しかしアイの隣には小さな人はいなくて、錆びた空き缶が河原に落ちているばかりでした。
そのかわりに、大勢の人がアイの周りでドラム缶で寝る修行をしていました。
目の下に隈のある苦しげな表情をした少年がアイの前にやってきて、人間に生きる価値はあるのでしょうか、ぼくは生きていていいのでしょうか、教祖さま、と言いました。
わたしは教祖なんかじゃない、とアイは答えました。
わたしにも人間に生きる価値があるかどうかはわからない。
でもあなたの隣にいることはできるよ。
少年はアイの隣に来て、ドラム缶の上で寝る修行を始めました。
アイは今もドラム缶の上で寝ています。
彼女の顔にはいつも穏やかな笑みが浮かんでいて、それはだれかの心を癒しているのでした。
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