第16話 歴史の教科書を見るとムカムカするの、と彼女は言った。

 鏡史子とは、高校で同じクラスだった。さらに言えば元カノで、三年生のときに別れて、今は友達という間柄だ。受験勉強にかまけて付き合いをおろそかにし、フラれた。

 僕と史子は同じ大学に進学した。僕は医学部医学科で、彼女は文学部史学科だ。二人とも四年生になる。彼女は最上級生だが、医学部は六年制だから、僕はまだ中堅だ。

 彼女とは今でも仲がよくて、学生食堂などでよく合い、よく話している。

 実は今でも史子が好きた。

「歴史の教科書を見るとムカムカするの。なんとかの乱とかなんとか戦争ばかりだから。人間って、戦争ばかりしているのよ。私は平和が好き。なんとかならないかしら」と高校時代に彼女は言った。

 その問題意識が歴史嫌悪を上回って、彼女は史学科を受験し、合格した。今は日本史の近現代を扱うゼミに所属している。

 僕は父も母も医者で、一人息子で、ごく自然な成り行きで医学部に進学した。しかし今は医者ではなく、研究者になりたいと思っている。

 バイオサイエンスのゼミに所属している。指導教官の勝沼教授は葉緑体を動物の細胞に移植し、増殖させる研究を行っている。僕はずっとそれを手伝いたいと願っている。光合成動物の誕生が教授の目標である。

 僕と史子は学生食堂の常連で、そこでよく顔を合わせる。四年生に進級したばかりの春のうららかな日、僕は昼食にカレーライスを食べていた。彼女はポテトサラダを持って、僕の前に座った。

 史子は髪をショートカットにしたスレンダーな女の子だ。遠目には、美少年にしか見えない。

「グリーンマウスができそうなんだ」と僕は言った。

「素敵ね、グリーン動物。光合成でエネルギーを生むんでしょう。何も食べなくていいのよね」

「まったく食べなくていいわけじゃないよ。タンパク質やビタミンなんかを摂取する必要はある。でも食事の量は劇的に減るはずだ」

「きっと平和的な動物になるわ」

「いつも日向ぼっこをしている。争いは嫌い。戦うより逃げることを選択する」

「素敵ね」

 史子は菜食主義者だ。動物を殺すことを避けている。平和主義者で、世界から戦争がなくなればいいのにと心から願っている。長い付き合いだ。偽善者ではないと知っている。

「僕らのゼミでは実験で多くのマウスが死んでいる。きみはそれをどう思う?」

「より平和な時代を創るための尊い犠牲だと考えるわ」

「僕たちは平和のために研究をしているわけではないよ。勝沼教授は将来、グリーン家畜やグリーンペットを生み出そうと考えている。飼料の安い動物だ。エコではある。うんこの世話も最小限で済む」

「食事中にうんこの話はやめて」

「あ、ごめん」

 僕は口をつぐみ、カレーを食べることに集中した。

 史子はポテトサラダを食べ終えると、また話し始めた。

「私は今、江戸時代の研究をしているの。極端に戦争の少ない時代だった。徳川幕府は偉大だわ。黒船が来なければ、さらに長く平和な時代が続いたはずよ」

「でも黒船は来て、開国した。鎖国を続けることはできなかったのかな」

「無理だったでしょうね。帝国主義の時代よ。開国しなければ、アヘン戦争みたいなことが起こって、日本は植民地にされていたでしょうね」

「明治政府は西南戦争、日清戦争、日露戦争をした」

「昭和には日中戦争、ノモンハン戦争、太平洋戦争を起こした」

 史子はノモンハン事件をあえてノモンハン戦争と呼ぶ。

「アメリカ合衆国と戦うなんて、無茶苦茶よ。真珠湾奇襲は最悪の戦術だったと私は思う」

「ミッドウェイ海戦よりも?」

「リメンバーパールハーバーでアメリカ国民を団結させてしまった。山本五十六は私に言わせれば、愚将よ」

「手厳しいね。彼は戦争反対派だったんだろう?」

「最後までそれをつらぬくべきだった。なまじっかに喧嘩が強いから、アメリカを怒らせてしまった」

 史子の目には力がある。僕は見惚れてしまう。

 五月になり、グリーンマウスが完成した。緑の肌をしたつがいのマウス。

 七月には、マウスの子どもが生まれた。生まれつき肌の色がグリーンだった。葉緑体細胞が遺伝したのだ。

 勝沼教授は記者会見を行った。この研究成果は世界中で大きなニュースとなり、数年後、教授はノーベル医学・生理学賞を受賞することになる。

 僕は大学五年生になり、史子は卒業した。彼女は高校の日本史の教師になった。

「すばらしい進路だ。おめでとう」

 僕は彼女に貝殻の形をしたネックレスをプレゼントした。

「ありがとう。綺麗ね」

「ねぇ、きみは今、付き合っている人はいるの?」

「いないわ」

「僕たち、また付き合うことはできないかな? きみが卒業して、縁遠くなってしまうのは寂しい」

「研究にかまけて、私をほったらかしにしない?」

「しない。同じあやまちは繰り返さないよ」

「じゃあ、いいわ。彼女になってあげる」

「僕は実家を出て、アパートを借りるつもりだ。一緒に住まないか?」

「いいけど、私は肉料理は作らないし、食べないわよ」

「そんなこと、わかってるよ」

 僕と史子はよりを戻し、同棲を始めた。

 たまに喧嘩したけれど、彼女とは概ねうまく付き合えた。僕たちは二十代を同じアパートで暮らした。僕は大学に残り続けて、修士、博士課程に進んだ。収入がなく、高校教師の彼女に食べさせてもらっているような関係になってしまったけれど。僕も菜食が多くなった。

 グリーン豚、グリーン牛、グリーン鶏、グリーン猫、グリーン犬が生まれ、勝沼教授は企業と提携して、非常勤取締役になった。光合成動物は事業になり、巨額の利潤を生んだ。僕は博士課程を修了し、助手になった。

「ねぇ、グリーン人間は作らないの?」ある日史子が言った。

「人体実験が必要だからね。光合成人間が生まれるのは、まだまだ先だね」

「私、実験されてもいいよ」

「まさか。きみは僕にとってかけがえのない人だ。きみに人体実験なんてできないよ」

 でも史子は勝沼教授と直接交渉し、僕たちの研究に実験体として参加することになった。

 僕は教授が彼女の体に特殊な葉緑体を接種するのを止められなかった。

 実験は成功した。彼女の肌は緑色になった。グリーン人間の誕生だ。

「学校で何か言われないか?」

「生徒から綺麗な肌だって言われるわ。教員はなんにも言わないけれど、問題はないわよ」

「それならいいけど。史子、きみは勝沼教授と共に、歴史になった」

「あなたもなれば? 最初の光合成人間のカップルになるの」

 僕もそう思っていた。すぐに決心し、グリーン人間になった。

 休日、僕たちは海やプールへ行き、水着姿で日光浴するのが習慣になった。日の光を浴びていると、とても穏やかな気持ちになれた。甲羅干しをする亀みたいな気分だ。

 僕と史子は結婚し、グリーンな肌を持つ赤ちゃんを授かった。

「光合成人間はきっと平和な時代を招くわ」と史子は言う。

「そうなるといいね」

 二十一世紀半ばになっても、まだ世界では戦争や紛争が絶えていない。食糧問題を巡って戦争が勃発することもある。光合成人間が増えれば、食糧問題は解決する可能性が高い。

 勝沼教授は引退し、僕がゼミを引き継いだ。光合成人間=ホモ・ルクスゼミと名乗っている。

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