第9話 宇宙の果てを描く画家

 僕は画家だ。宇宙の果てをテーマに油絵を描いている。たとえば、キャンバスを一面黒く塗りたくって、「宇宙の果ては暗黒」というタイトルをつける。そんな絵が売れるのか、と思う人は多いだろう。ところが、これが売れるのだ。百十八万円で売れた。黒地に白とグレイでメビウスの輪を描いた「宇宙の果ては無限」は百三十万円で売れた。もちろん成功するまでにはそれなりの苦労をした。それを今から語ろう。

 僕は少年時代から宇宙の果てを想像するのが好きだった。何時間でも考え続けた。当たり前だが、いくら考えてもわからない。宇宙の果ては謎だ。だが、その謎を想像するのが好きだった。宇宙の果てはどうなっているのだろう。果ての向こうってどうなっているのだろう。果ての先に何かがあるのなら、それは果てではないよなぁ、などと考えながら、夜空を見上げていた。

 僕に物理学の才能があったなら、宇宙物理学の道に進んだと思う。ところが、高校の物理がまったくわからなかった。早々に断念した。相対性理論とか超ひも理論とかを理解したかったが、そういう本を読むと、最初の数ページで挫折した。数式が少しでも出てくると、もう読む気がなくなってしまう。

 一方、僕には画才があるようだった。僕の描いた風景画は高校の美術教師をうならせた。将来は画家になって、宇宙の果てをテーマに絵を描きたいと思うようになった。僕は真面目に美術予備校に通い、まっとうにデッサンの練習をし、油絵についても研鑽を積み、現役で美大の油画科に合格した。

 美大では念願の宇宙の果てをテーマにした絵を描き始めた。黒の四角形と白の円で構成した「宇宙の果ての果て」、原色で渦巻きを描いた「宇宙の果ては渦巻き」などという絵を描いた。教授にも友人の美大生にもまったく評価されなかった。

「現代美術としては少しも意味がない。宇宙の果てには見えないし、前衛美術としても幼稚すぎる」などと言われた。僕はめげなかった。僕なりの宇宙の果てを描くのをやめなかった。「宇宙の果てにいる神」とか「宇宙の果ては量子コンピュータ」といった作品を創り続けた。卒業制作は宇宙の果てをイメージしたインスタレーションを創った。教授はなんとか認めてくれて、無事卒業することができた。

「おまえの宇宙の果てへの熱意だけは認める」それが教授の評価だった。

 僕はゲーム制作会社に就職し、絵画ソフトの使い方を身に付け、背景画家として働いた。それで収入を確保しながら、余暇には宇宙の果てを描き続けた。ゲーム会社は多忙だったが、それでも僕は宇宙の果てを描くのをやめなかった。

 描き上げて、いいものができたなと思うと、画廊に売り込みに行った。どこも相手にしてくれなかった。最初に絵が認められるまで、五年かかった。僕は「宇宙の果てに触れた女」というタイトルの油絵を六本木のとある画廊に持ち込んだ。画廊のオーナーが気に入ってくれて、六万円で買い取ってくれた。

 一週間後、僕はその画廊に行った。僕の絵はなくなっていた。

「『宇宙の果てに触れた女』はどうなったんですか」

「売れたよ」

 画商はにんまり笑った。

「えっ。いくらで」

「三十四万円だ」

 儲けやがったな、と僕は思ったが、黙っていた。

「また描いたら、持っておいで」と画商は言ってくれた。無名の画家にとっては、ありがたい言葉だった。

 僕はしばらく宇宙の果てと女をテーマにした絵を描き続けた。「宇宙の果てで分断された女」とか「宇宙の果てで前世を見た女」とか「宇宙の果てで捻じ曲がる女」といったタイトルの作品群だ。それらの絵は数十万円で売れ続けた。画商はしだいに僕の絵を高値で買い取ってくれるようになった。宇宙の果ての女シリーズは一部の現代美術愛好家の中で評判になり、僕は専業画家になる決意を固めた。ゲーム制作会社を辞めた。

 僕は生活のために宇宙の果ての女を描きながら、真に描きたかったものも描き始めた。少年の頃から想像し続けた宇宙の果てを純粋に描いたものだ。

「宇宙の果ては次元の果て」は黒地に無数の白い泡を描いた作品だ。売れなかった。

「果てしなき宇宙の果ての果て」は無数の光線がキャンバスの中央に向かっている作品だ。売れなかった。

 画商は純粋な宇宙の果ての絵を買い取ってくれなくなった。一週間だけでも展示してほしいと頼み込み、僕は作品制作を続けた。それなりの値がつく宇宙の果ての女の絵も描き続けなくてはならなかった。純粋作品はことごとく返品された。僕は気に入っている絵だけをトランクルームに放り込み、残りの作品は破棄した。

 六本木の画廊と付き合い始めて二年後、ついに女がいない純粋な宇宙の果ての絵が売れた。「宇宙の果てを考え続けて」というタイトルの白と黒の格子縞で構成された作品だった。その絵を買ったのは、そこそこ有名な宇宙物理学者だった。学者は自分の書斎に僕の絵を飾った。その学者が取材されたテレビ番組に「宇宙の果てを考え続けて」が映った。「妙に気に入っているんですよ、この絵」と学者はインタビューに答えた。

 僕の絵がブレイクしたのは、そのテレビ番組がきっかけだった。

「宇宙の果ての絵はこの画廊で売っているんでしょう、などと言う客が増えたよ」と画商は言った。僕の宇宙の果ての絵はすぐに売り切れるようになった。僕は新作を描き続けた。トランクルームに放り込んでいた絵も売り出した。どれも百万円以上の値で売れた。画商と僕はなかなかの儲けを得た。

 しばらくは収入がなくても生きていけるほどの貯金ができたので、僕は半年ほどかけて絵を描き貯め、画廊で個展を開いた。「宇宙の果ては暗黒」や「宇宙の果ては無限」はこの個展に出品した作品だ。個展は多くの客でにぎわい、テレビの美術番組でも紹介された。僕はちょっとした有名人になった。

 オークションで僕の絵が高値で取引されるようになった。「宇宙の果ては次元の果て」は都内の美術館が一千三百万円で落札した。ついに僕の絵は美術館で飾られるようになったのだ。

 僕は僕の絵を買ってくれた宇宙物理学者と対談した。美術関係の雑誌編集部の企画だった。

「実は僕は宇宙科学のことは全然わからないんです。ただ、宇宙の果てへの想像力だけがあふれ出て、描かずにはいられなくなるんです。少年のときに抱いた宇宙の果てを知りたいという純粋な想いが、今でも僕の創作の源泉です」というような話をした。

「私も似たようなものですよ。宇宙の謎を知りたいという想いが、私の研究を支えています。宇宙の果ては、私たち学者にとっても謎なんです。ビックバンによって宇宙が生まれ、宇宙は膨張しているというのが、今なお主流の説ですが、では果てはどのような形なのか。そこはある種の壁のようなものなのか。では壁の外はどうなっているのか。無か。では無とは何か。時間も空間もないと言うしかありませんが、イメージするのはむずかしい。実のところ、何もわかってはいないのです」学者はそんなふうなことを言った。僕のレベルに合わせて話してくれているのだなとは思ったが、はっきりしたことは何もわからないという点では、僕も学者も同じなのだ。

 僕はますます創作意欲を膨らませて、描き続けた。

「宇宙の果ての向こうは宇宙」「宇宙の果てと宇宙の果ての衝突」「僕は宇宙の果てを考えて発狂する寸前だ」「宇宙の果ては数式」などの作品は初値で一千万円を超えた。

 僕の絵を集めている都内の美術館が、僕の展覧会を企画した。「深淵・宇宙の果てを描く」という展覧会を開きたいとのことで、正式に依頼された。僕は素直に喜び、ぜひ実施してほしい。何でも協力する、と答えた。美術館からサイズ五百号の新作を依頼された。僕は新作に取りかかった。

 僕は無心でキャンバスに向かった。そこに描いていったのは、夜の海のような絵だった。意識してそれを描いたわけではなかった。自然とそのように筆が動いた。僕の無意識がそれを描かせたと言っていいと思う。僕はまったく力まずに描いた。傑作を描いてやるなどとは少しも考えなかった。

 新作が完成した。「宇宙の果ては波」というタイトルをつけた。美術館の学芸員は感銘を受けたようだった。約束していたより、少しだけ高額で美術館は「宇宙の果ては波」を買ってくれた。

 展覧会が始まり、「宇宙の果ては波」は驚くほど高い評価を得た。現代美術の専門家からも、絵が好きなだけの素人からも絶賛された。「吸い込まれるようだ」「見ていると浮遊感に包まれる」「上下の感覚がなくなる」「本当に宇宙の果てにいるようだ」などと評された。

 美術館で不思議なことが起こったのは、「深淵・宇宙の果てを描く展」が会期半ばを過ぎた頃のことだった。ある少女が「宇宙の果ては波」に向かって歩いていき、絵に吸い込まれてしまったというのだ。僕はにわかには信じられなかったが、目撃者が三人もいた。少女の両親は行方不明になった娘の捜索願いを警察署に出した。「少女は宇宙の果てに引きずり込まれたのだろうか」などというようなことを書く新聞記者もいた。

 その新聞記事を見て、大衆が美術館に殺到した。僕は困惑していた。本当に「宇宙の果ては波」は超自然的な力を持って、少女を吸引したのだろうか。

 超常現象が起こったのは一度だけだった。新聞記事を見て「宇宙の果ては波」に向かって歩いていった人が少なからずいたが、誰も吸い込まれはしなかった。美術館はすぐにそのような行為を禁止し、厳重に絵を監視した。

 会期が終わり、僕は一人で「宇宙の果ては波」を見た。その他にも多数の宇宙の果ての絵が美術館の中に飾られていた。僕は少女が宇宙の果てに行ったのだと信じた。うらやましかった。僕も行きたいと思って、自然に涙が出た。

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