駅ピアノ

増田朋美

駅ピアノ

駅ピアノ

今日はもうすぐ桜の開花が天気予報で報道されそうなくらい暖かい日だった。多少寒の戻りと言われることもあるが、もう目立った寒さはなく、春が近いなということがわかる。春というと、どんなイメージが思いつくだろうか。卒業とか、入学とか、そういう学校の事だけではない。仕事に就く、あるいはその逆もあるかもしれない。とにかく春というのは、何か大掛かりなものが一気に押し寄せてくる季節である。

そんな中、鉄道にも春がやってくる。富士市内でのローカル線と言われている岳南鉄道であるが、最近は、電車の人気で乗客が集まってくることが、功を奏したのだろうか。岳南鉄道の各駅も改良工事が盛んにおこなわれるようになった。その中でも特に大きな駅のひとつである、岳南富士岡駅に、なぜか、グランドピアノが設置されることになった。

と言っても、場所が場所だけに、グランドピアノの中でも一番小さなものであった。本物を求める人は、あれでは、ただ駅の飾り物に過ぎないというけれど、音楽好きな人が、岳南富士岡駅でピアノを弾くようになった。小さな子供から、音楽学校を志す高校生、仕事を持つ主婦、あるいは仕事をしながらでもピアノを弾きたがっているサラリーマン、いろんな人たちが、このグランドピアノを弾きこなすようになった。弾く曲は、ポップミュージックから、映画音楽などを弾く人が多かったが、中にはマニアックなクラシック音楽を演奏する人もいる。

「あ、あれですね。」

浩二は、人の多さに一寸怖がっている、望月優君を連れて、岳南富士岡駅で電車を降りた。そして、駅員さんに切符を渡して、グランドピアノが設置されている、駅のロビーに行く。

「ほら、あれですよ。よかった、幸い今の時間だったら、誰も弾いている人はいませんね。じゃあ、あそこで思いっきり弾いてください。ホールとかで練習するのと違って、又ちがった緊張感が得られると思います。」

そういって、何とかおだてながら、浩二は優君をピアノの前に座らせた。そして、カバンの中からベートーベンのソナタ集を取り出させて、

「じゃあやってみてください。自由に弾いていいということですから、次に弾きたい人が出るまで、思いっきりやってかまいませんからね。」

と、彼に、ハンマーグラビーアの第一楽章を弾かせてみる。確かに、日ごろからよく練習しているので、彼の演奏は、しっかり音も出ているし、きちんと音のバランスも整っているし、リズム感も性格だ。でも逆を言えばそれは、優君が社会に参加していないということにもなるのだった。

ここは駅だったから、絶えず電車がやってきて、降りる人と乗る人とが交互に訪れる。中には人を迎えに行く人や、その逆の人もいる。駅はとどまることを知らないで絶えず動いている環境なのだ。そんな中で、優君のハンマーグラビーアが流れると、一部の人が、彼の演奏に興味をもって近づいてきた。実は浩二はこれを狙っていたのであった。優君の演奏は間違いなくすごいものであったから、それを実感してもらおうということで、彼をここに連れてきたのである。

「すごく楽しそうですね。ベートーベンの大曲、よくやられていますね。」

切符を駅員に渡したおばあさんがにこやかに言って、ピアノの前を通り越した。おばあさんはしばらくそこにいたが、迎えに来た若い女性に連れられて、その場を去っていった。

「桂先生、もういいですか。第四楽章まで弾いて、疲れてしまいました。」

と、優君がしばらくしてそういうと、

「ちょっと待て!」

と、声高らかに声をかけてきたのは、指揮者の広上鱗太郎であった。

「広上先生、どうしたんですか、こんなところで何をしているんですか?」

浩二は思わずそう尋ねた。

「いや、俺はちょっと、この辺のアマチュアオーケストラの面倒を見に来てな。その帰りなんだ。」

と鱗太郎は、即答した。どうやらまたアマチュアオーケストラの指導に夢中になっているらしい。以前はテレビ番組に出演したりもしていたけど、何だかそういう仕事がつまらなくなってしまったのだろう。

優君は、いきなり大物が現れて、驚きを隠せない顔をして、演奏をやめた。

「ああ、やめなくていいよ。君の演奏はなかなかの大したものだ。ほら、俺だけではなく、駅員までもが君の演奏で穏やかな顔をしているぞ。」

確かに、その通りなのだった。切符を切っていた駅員は、こんな大曲をやった人は初めてなので、どう反応したらいいかわからないという顔をしている。

「うん、素晴らしい演奏だ。そうやってくれるのなら、ベートーベンも喜んでくれることだろう。そうですね、駅員さん。彼の演奏は、すごいものでしたね。」

鱗太郎が駅員にそういうと、駅員は、

「ええ、こんなすごい曲を弾ける人が出たのは初めてです。」

と、ありきたりの感想を言った。

「そうだねえ。それで、一寸聞くが、君の職業はなんだろうか?学生さんか?それとも、サラリーマンとかそういう仕事かな?」

鱗太郎はいきなりそういう事を聞いてきた。こういう質問は大物だからできるのではないかと、思われる質問である。

「ああ、あの、彼はですね。高校を卒業後、電気技師になりましたが、先月会社でひどいパワーハラスメントを受けまして、いまあたらしい会社を探しているんです。」

優君が返事に困っていると、浩二は代わりに応えた。

「そうか。それなら、君に貴重な運を授けよう。その、ハンマーグラビーアを録音して、売りに出すんだ。君の演奏は其れくらい価値がある。そうして、CD発売記念コンサートのようなものを、俺たちのオーケストラと一緒にやってみないか?曲はそうだな、ショパンのピアノ協奏曲でもいいし、もっと派手なのがやりたかったら、ベートーベンの皇帝とかそういうものでもいい。いずれにしても、君の演奏は、それくらい価値があるものだ。うちのオーケストラのメンバーも、良いソリストが現れてくれて、大喜びすることだろう。よし、直ぐにレコード会社に俺が電話をするから、君の名前を教えてくれないかな?」

「広上先生、そんなに強引なやり方はしないで下さいよ。そういうことを言うんだったら、僕も言わせていただきますが、優君は、自律神経失調症と、対人恐怖症にかかって、しばらく安静が必要だったところから、やっと外出できた所だったんです。そんな人がいきなり人前で演奏できるはずがないでしょうが。先生ももう少し、相手を選んで言ってもらわないと。」

そういうことをずらずらという鱗太郎に、浩二は急いで彼の話を打ち消した。鱗太郎は、浩二のいうことを聞いて、

「そうか、、、。せっかく、大物を捕まえられたと思ったんだけどな。次の演奏会のソリストが決まらなくて、困っていたところだったので。」

と頭をかじりながら文字通り、困った顔をした。

「大物じゃありませんよ。確かに、ストリートライブで演奏家を捕まえられることはあるかもしれませんが、その人がどういう人であるか、ちゃんと考えて拾って下さい。」

浩二は、なんでも強引にやってしまう鱗太郎に、ちょっといらだちながら、そういった。

「本当は、演奏会の出演料が払えないとか、そういうことでしょ。」

「まさしくそうだ。」

と、鱗太郎は答えた。

「でも、演奏会をしないと、団員のモチベーションも下がってしまうし、かといって安価でやってくれるソリストもいないしね。だから俺も困っているわけ。それで、名前はわからないけど、この若者に、出てもらいたい。まだ、あきらめられないよ。そのくらいの演奏技術を彼は持っている。」

「彼の名は望月優君です。そういうことを言うのなら、せめて彼の体調が回復してから、演奏会に出演させてやってくれませんか?」

そういう鱗太郎に、浩二はそう訂正した。優君は穴が在ったら入りたいという感じの顔で小さくなっている。

「いや、君が恥ずかしがる必要はないんだよ。きみの演奏は、とても価値があるんだから、すごいものなんだから自信をもって。そういう風に考えられれば、対人恐怖なんて何処かに飛んでしまうような気がするんだがな?」

「広上先生が言うことは、有名な先生であっても、無理があります。誰でも表舞台に立ちたいわけじゃないんです。いきなり舞台に出させるのではなく、もうちょっと段階的にやってくれませんか。彼は、ここでピアノを弾くのも、疲れてしまうんですよ。」

「でも、それだけの演奏技術と感性を持っているんだから、出てもらえないかなあ?きっとそこの駅員さんだけではなく、ほかにも感動する人はいると思うよ。」

浩二ははじめは反対であったが、鱗太郎が何回もしつこくせびるので、一度は出させてもいいかなと思うようになった。でも、彼の人が怖いという訴えを聞いているので、いきなり大舞台に出させるのはかわいそうだと思った。

「そうですか。それなら彼の演奏をより良くするために、高名な先生にレッスンしてもらって、彼に自身をつけさせてはいかがですか?」

浩二はそう提案してみた。鱗太郎もそうだねえとそれに頷き返す。

「よし、俺が、一緒にその先生のレッスンに付き添おう。よし、芸大にでも電話してみるか。」

鱗太郎は、スマートフォンを取り出したが、浩二はその前に、身近な人に見てもらった方が良いといった。いきなり芸大の先生に電話したら、又パワハラ上司と会わされるのではないかと思われてしまうかもしれないので。

「身近な人ねえ。この近辺に、そういうすごい奴はいたかな?みんな年寄りばかりで、古臭い考えを押し付けるような奴ばっかりだよ。」

「それなら、右城先生にレッスンしてもらいましょうよ。すくなくとも右城先生は古臭いことを押し付けることはしないでしょう。」

鱗太郎に浩二はそう提案してみた。そういうことならと鱗太郎もそれに応じた。

「あいつは、リサイタルで何回もゴドフスキーを弾いてきたんだ。そういうすごい奴なら、絶対才能を開花させてくれて、いい方向へ導いてくれることだろう。」

鱗太郎は、そういう事をつぶやいた。一体これから何が始まるのか予測ができないで、びくびくしている優君に、浩二は何も悪いことは起こりませんから、気にしないでくださいね、とだけ言っておいた。

数日後、大渕にある製鉄所では。

「水穂さん大丈夫か。今日もたくあん一切れしか食べなかったな。今日はお客さんが来るんだよ。だから、せめてそばいっぱいは食べてもらいたかったんだけど。」

杉ちゃんがせき込んでいる水穂さんの背中をさすってやりながら、ため息をついて言った。やがて水穂さんの口元から赤い液体が漏れてきたので、杉ちゃんは急いでそれをふき取った。

「あーあ、これでは、ダメだあ。お客さんには断ってもらわなければだめだなあ。」

と、杉ちゃんはまたため息をつくと、

「おーい水穂。ちょっとこいつのハンマーグラビーアを聞いてやってくれよ。それで、次の演奏会で、協奏曲を弾けるように、徹底的に指導してやってくれ。」

同時に玄関の引き戸がガラガラっと開いて、鱗太郎と浩二、そして、望月優君がやってきたのであった。こうなったら、水穂さんを寝かしつけている暇はないと思った杉ちゃんであったが、何か責任を感じたのだろうか、水穂さんは、自らの手で口元を拭いた。杉ちゃんはお邪魔虫は消えるねと言って、隣の部屋へ行ってしまった。

「おう、相変わらず、やつれた体で、もう疲れたって顔してるけど、今日からはそうはいかないぞ。この男性の演奏を聞いてやってくれよ。よろしく頼む。」

鱗太郎は、どんどん四畳半に入ってきて、ピアノの近くに座った。浩二は、優君にどうぞ弾いてくださいと言って、水穂さんのグロトリアンのピアノの前に彼を座らせる。グロトリアンのピアノは、鍵盤の一部に血痕をふき取ったあとがあったが、浩二はそんなこと気にしないで弾いていいといった。

「とりあえず、第一楽章をやってみてくれ。ハンマーグラビーアは長い曲だからな。一つ一つ、段階的にやっていこう。」

鱗太郎にそういわれて、優君ははいと言って、ハンマーグラビーアの第一楽章を弾いた。確かにハンマーグラビーアは長い曲であった。第一楽章でも結構な労力を必要とする曲である。

「どうでしょうか?」

と、浩二は、水穂さんに聞いてみた。確かに、すごい演奏ではあった。ちゃんとソプラノが響いているし、音のバランスもいい。リズム感もしっかりしていて、三連譜の連続なども、しっかり引けているのであった。

「どうですか。右城先生。彼の演奏は間違いなく大物ですよね。彼、間違いなく音楽の才能はありますよね?」

「お前も、演奏家なんだから、何か言ってやってくれ。こんな才能のあるやつは、まさしく開花させてやらなければだめだよな。それが俺たちの務めだ。だからお前も、感想を言ってやってくれよ。それよりも、残りの三楽章を演奏させて、全体の様子を知ってからにするか?」

浩二と鱗太郎が相次いでそういうと、水穂さんは返事の代わりに咳をした。杉ちゃんに背中をさすってもらって、何とか座らせてもらっているだけである。

「おい、水穂。お前、大正とか昭和の初めじゃないんだからさ、もう少し治ろうとする意識をもってくれよ。お前だって、彼のレッスンのために必要になるんだよ。」

鱗太郎はそうやっている水穂さんにあきれた顔で言った。水穂さんはすみませんと言って、口元をタオルで拭きとった。

「何か感想でも言ってやってくれよ。なんでもいいよ。彼がこれから才能を開花させていくためのアドバイスをしてやってくれ。」

と、鱗太郎は、一寸いらだってそういうと、

「彼を、ピアニストとしてデビューさせるのは、可哀そうだと思います。」

と、水穂さんは言った。

「はあ?なんで?だって、これだけ演奏技術もあって、感性だって素晴らしい奴じゃないか。そんなに才能があるやつを、放置しておくのもいけないことだと思うけどな。そうじゃなくて、才能あるやつは、どんどん世の中へ出してやって、世のなかに認めてもらうような、演奏をさせるのが俺たちの務めだろ?」

鱗太郎がそういうと水穂さんは首を振った。

「そんなことさせたら、よけいに彼がかわいそうですよ。だって、ピアノを弾くということが、彼にとっては心のよりどころかもしれないけど、もしかしたら、それが普段の生活から遠ざけることにもなっているのかもしれないんですよ。」

「はあ、それはどういうことだ。だって、これだけうまくて、すごいことができるやつはそうはいないぜ。」

水穂さんの反応に鱗太郎は驚いた顔をして言った。

「右城先生、彼の事、かわいそうだ何て言わないであげてください。彼は、会社にどうしてもなじめなくて、それで今療養しているのですから、そんな人をかわいそうだというのはちょっと酷だと思います。」

浩二も、水穂さんの言葉を訂正しようと思ったが、

「いいえ、こんな大曲を弾きこなせたのですから、ありすぎるほど時間が在って、それでやっていたんでしょう。そうでなければ、この大曲に取り組むことはできませんよ。其れであれば、はやく現実世界に戻る訓練をして、現実で生活するようにしなければなりません。才能というのは確かにあるのかもしれないけれど、必要なのは才能では有りません。其れよりも、力ですよ。世の中の変化に順応していく力。」

水穂さんは、表情こそ優しいが、その内容は厳しかった。

「このままピアニストとして生きていくことを選んだら、間違いなく世の中から切り離されてしまうと思うんです。それは、本人は気にしないでいいのかもしれないですけど、周りのひとは、多大なつらさを背負ってしまうものですよ。そういうつらさというのは、誰にも打ち明けることはできませんから、結局命を放棄するしか方法がないのです。日本では誰かの力を得て生きるということは、まず不可能であり、人に評価されなければ幸せになることはできやしない。芸術の世界にいるよりも、現実にうまく対応して、現実世界で生きることこそ、一番の使命だと思うんですね。」

「お前なあ、お前も、演奏家なんだから、後継者が欲しいとかそういう事思わないの?この人は、音楽の才能があって、ハンマーグラビーアという難曲も弾きこなすほど、演奏技術のある人なんだぜ。お前が言っていることは、そういうひとに対して失礼だというか、おかしいと思うよ。お前は、うれしくなかったの?後継者が現れてくれて。」

鱗太郎が水穂さんにそう聞くが、

「いいえ思いません。僕は大損をしたとしか思えない。」

と、水穂さんは答えた。

「それならなんで、お前は音楽を続けてきたんだ。何であんなにゴドフスキーのジャワ組曲とか、そういうものを演奏したんだよ。お前だって、そういう事でお前が持っている才能を開花させることができたんだぞ。」

「ええ、あれはただの道化人です。それに才能を開花させているわけではありませんよ。この体がその答えですよ。」

水穂さんがそういうことを言っているのをみて、優君はなるほどという感じの顔をした。むしろそういってくれた方がよかったとでも思っているのだろうか。確かに、浩二も水穂さんの言っていることは間違いではないと思うのであるが、、、。でも、どこかそれを認めてしまうのは悔しかった。

「本当にね、現実世界で生きていた方がよほど楽だと思いますよ。そのほうが世間の評価だって、良いものが得られるでしょうし。日本では、自己実現というより、自分を消して生きる方が美しいのですから。其れは、ここで生きる以上、絶対に忘れてはならないと思います。」

「あーあ、水穂にそんなこと言われるとは思わなかった。あんなにすごい難曲を、いくつもいくつも弾いた奴が出した答えが、こんなにしょぼいものだったとはな。お前より俺のほうがよっぽど大損をしたよ。」

鱗太郎は大きなため息をついたが、

「一つ、訂正してもよろしいですか?」

浩二は水穂さんに言った。

「なんでしょう?」

水穂さんが聞き返すと、

「先生は、音楽をして大損をしたとおっしゃいました。其れに、自分の事を道化人だともおっしゃいました。ですが、僕は右城先生の演奏を、素晴らしいものだと思います。単なる道化人があんなこと、絶対できません。」

浩二は、そこだけは水穂さんに伝えたかった。

今日も岳南富士岡駅の駅ピアノは、誰かに弾いてもらうのを待っているだろうか。ご自由に弾いてください、と書かれた看板が、小さく自己主張していた。




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駅ピアノ 増田朋美 @masubuchi4996

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