23 それから毎日、わたしたちは抱き合い、

 それから毎日、わたしたちは抱き合い、唇をつけた。毎日午後は屋根の上で過ごす。何故か律儀にも必ずそれは午後、と決めていたので、昼食が終わるのが待ち遠しくて仕方がなかった。

「化粧してるんだ、」

 顔を近付けたあとで彼が云う。

「瞼だけだよ。使わないのを伯母さんにもらったの」

 わたしは瞼の上をこすり、さあっと人差し指に付いた青銀色の粉を見る。

「こゆのイヤ?」

「ううん、……綺麗なね」

 それからまた顔を寄せあう。目を閉じて、脇腹を彼の手が撫でるのを感じる。わたしの胸が彼の体に密着している。指先が不器用に胸のあたりを辿る。あんなに暑かったのに、あんなに暑苦しくくっつきあって、わたしは稚拙には三センチ足りない、小さな幸福感で満たされていた。

 

 その八月の終わりのことだ。

 わたしはその日、伯母に用事を頼まれて、いつもより二階にいくのが遅くなった。従兄はいつも食事のあとすぐに自分の部屋に引き上げていたので、わたしは急ぎ足で二階に上っていった。熱いからだをもて余し気味にしながら細く急な階段を上がり、左手の和室を抜けて、建て増しの彼の部屋へ。そこで従兄はわたしを待っている筈だから。

 ふいに話し声が耳に入って立ち止まった。彼はひとりでわたしを待っているのではないのだ。何を云っているのかは分からなかったが、くふふ、とわらうこえがして、確信がわたしの意志と裏腹にやってくる。くすくす笑いが、吐息がわたしの耳に絡み付く。咲実だ。咲実がそこにいる。サク、とうわずった従兄の声。ふう、と咲実のひそやかに洩らす息。わたしもあんな声を出していたのだろうか。あんなふうにひそやかに悦ぶのだろうか。わたしは発火した、爆発した、あたまのなかが怒りに満ち、次の触媒をしゅぅしゅぅ探る触手が伸びる、ほかのことは何も考えられない。後退り、身を翻して逃げた。ハムスターよりも小さな音しか立てずに、逃げ出した。死にたい、と思った。

 

「咲実、わたしのポーチ使ったでしょ」

 夕食が済むまで、口を利かなかったわたしは、部屋──一階の仏間が、夏のあいだ泊まっているわたしたちにはあてがわれていた──に引き上げてふたりきりになってから咲実にいった。咲実は軽い動作でアイペンシルを手渡してきた。

「使ったけど。借りるよって云わなかった?」

「云ってない! ぜんぶ返して!」

 咲実はわたしと同じように瞼の上に青をのせ、長い髪は後ろでまとめられていた。わたしと咲実では髪の長さが違うのだが、そうすれば見分けがつかなくなる。彼女はわたしのふりをして屋根の上で従兄に逢ったのだ。

 咲実はわたしの気持ちなどすべて心得ていると云いたげな表情でわたしを見据えた。わたしは思わず彼女の耳のあたりを張った。

「なんで? なんでそんなことするの? 信じられない、わたしは……」

 咲実が冷めた口調で遮った。

「わたしを怒るのは筋違いじゃない? 彼を怒ったら?」

「あんたがだましたんやん!」

 わたしは声はおおきくなる。到底許せる話ではない。

「あいつ、見間違えるなんてあほちゃうかな。わたしのほうが美人なのになー……それとも知っててやったんしらん」

「あんた……さくみ……、」

 わたしは怒りのあまり息を吸うのさえ困難だった。肩を上下させるわたしに、咲実は調子を狂わさずに、しれっとしたまま言葉を続けた。

「どうせわたしはスペアなんだもん、サクちゃんがいなかったから、代わりにしただけよ」

「ふざけんなよあんた」

「サクちゃんが毎日してたことしただけよ」

 咲実は視線をぐにゃりと斜めに逸らす。

「すてき、サクちゃん凄い怒ってる」 

 口元を歪めて凶悪な顔つきをしてみせたので、わたしは再び彼女の頬を打った。

「サクちゃんおかしいよ。なんで怒ってるの? 彼、わたしたちがプライドを捨ててまで取り合うような子じゃないでしょ?」

 わたしは咲実に摑みかかろうとし、咲実がわたしの手を受け止めて捩じ曲げたので痛みに涙が出て視界が滲んだ。

 そのとき襖を叩く音がして、

「咲実ちゃん咲良ちゃん、梨おあがり」

 と、伯母の声がした。

「ありがとう。今行きます」

 咲実は乱れた髪をかきあげて平然と答えた。襖越しに呼ばれている。

「にじっせいき、美味しいから」

 

 認めたくはなくても、咲実の言葉は真実をついていた。わたしは彼が大好きだけど、彼に恋していたわけではなかった。彼が欲しいわけではなかった。欲しかったのはただの体験だったのだ。キスという体験──それは確かに甘やかだったけれど──。メルティ、メルティ。

 従兄は二十四で結婚した。

 八月にしか顔をあわせない今でこそ咲実とわたしの関係は穏やかだが、以前のわたしたちは本当に、かなり険悪な仲だった。性格上の不一致、というより、わたしたちの性格は根底では似通っていたと思う。ただ、咲実はその性格を押し通し、わたしは感情を捩じ曲げて周囲に適応していた。その方が無難で楽だったのだ。そのくせわたしはいつも、咲実はわたしよりも大きな自由を手にしているような気がして妬ましい気がしていた。

 

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