22 記憶のなかの台所。どうしてあの家はあんなに

 

    *   

 

 記憶のなかの台所。

 どうしてあの家はあんなに静かなのだろう。もう一度行きたい。失われた台所に。

 だから、夢のなかで歩き回る。

 台所の引き戸を開けて、隣室に入ることもできるはずなのだ。部屋の隅にある勝手口から、コンクリートの打ちっぱなしの物干し場に出ることも。物干し場の隅のプランタに咲いているあさがお。何もかもが死に絶えたあとに、ひっそりと見捨てられている静寂。

 その映像では、あたまのなかをかき回すように煩い蝉の声が、あさがおの背景を引っ掻いていないから、だから不自然で不穏なのかも知れない。現実的に殆どそれらは、切り離して体験できるものではないから。台所をぴたぴたと歩き回るわたしの服に、血が付いているのは何故だろう。

 

 

 午前の二時だった。咲実はよく眠っている。

 わたしは蒲団の傍で、水割りを飲みながら目を開けている。十二時頃うとうとしたのだが、金縛りに遭ってそれから起き上がってしまった。もう眠れない。

 咲実は和室の壁際に並んだお酒の壜を見ても何も云わなかった。けれどもさっき眠る前、しずかな声で、

「サクちゃんはやつれてるわ」

 と云った。わたしは西嶋の別荘にいた頃の咲実の、古い刃物のように痛々しくげっそりした様子を思い出し、あんたに云われたくないわ、と胸の内で云い返した。けれども実際、目の下の隈は深く消えないし、足の爪は紫色で縦にひび割れている。刺々しい見えるかも知れないな、と少しは思い、草野くんのことを気にした。彼には醜く思われたくない。

 

 

 アルバイトが夏休みになり、わたしは毎日時間がある。

 学校の研修合宿に行ったセナちゃんから葉書が届いた。優しいなあと嬉しく思う同時に、送る相手がわたしで良いのか戸惑ってしまう。水色の絵葉書だ。

 草野くんとは何度か逢っていた。リヴィングに立ち並ぶ空き壜は増殖し続け、咲実は部屋のなかでゆらゆらと暮らしている。わたしも仕事がないので家にいる。咲実が冷凍庫に並べた色とりどりの製氷皿。眠れない夜。眩しいだけの昼。日々は凄く不毛な感じがした。その不毛さが、しずかで穏やかな暮らしの幸福だった。咲実がはな歌を歌っている。クワイエットラーイフ、クワイエット・ラアアイフ。

「勉強を教えている子、婚約してるのよ」

 そう云うと咲実は真顔になって、

「西嶋さんには悪いけど、」

 と前置きをしてから、

「わたしも少年と結婚しとけばよかったわ」

 と云った。西嶋と少年のふたつの名前をその口から聞いたのは久し振りで、わたしは咲実のかおを見た。

 

 実を云えばほんの一瞬、わたしたち双子と従兄は、三角関係にあった。

 わたしたちが母の郷里で過ごした最後の年だった。夏休みを伯母の家で過ごすという習慣は、誰も言葉にはしなかったが、もう終りだった。わたしのこころは家族や親戚と田舎で過ごす休暇から離れかけていた。わたしたちはそれぞれの心のなかで終焉を感じとった。

 わたしたちは十六で、わたしたちの従兄は十七だった。そろそろ彼がわたしたちの〝少年〟でいられる、最後の年でもあった。

 幼い頃とは違う意味で、わたしたちの日々は倦んでいた。以前の遊びは、とうに魅力を失い、従兄とわたしたちは仲はよかったが、数年前のように彼に連れられて山や林のなかに入ることはなかった。咲実は昼過ぎるとたいてい何処かへいってしまい、わたしは和室で勉強したり、伯母の相手をしたりして一日を過ごす。

 従兄の部屋に入り浸るようになったきっかけは憶えていない。従兄は時の経つにつれて、ただの少年らしい彼ではなくなっていた。電波倶楽部、という名の部活に熱中していた彼は博識で、やがてわたしは彼と話すのが好きになった(初めてその倶楽部の名前を聞いたときには、咲実と二人、あとでひそかに、でんぱだって! と大笑いしたのだが。その頃のわたしたちにとってその名前の怪しさは並み大抵のものではなかった)。

 少年の部屋は、三年前に二階に建て増しされた小さな部屋だった。窓はあったものの板張りで酷く暑さがこもるそのなかで、自作ラジオなんてものから雑音の入る放送を流しっぱなしにして、彼は小説ではない本を熱心に眺めたりしていた。わたしは小説と家から持ってきたカセットテープ持参で、毎日午後になると彼の部屋へいった。

 やがてラジオ放送は止んでカセットの洋楽が流れ出す。わたしは彼と話したり本を読んだり彼の持ち物を引っ掻き回したりする。テレビ石だとか、メータの沢山ついた用途不明の機械類だとか、上皿天秤だとか、面白いものが沢山あった。たぶん拾ってきたものばかりだ。

「あのさーMDの方が持ってる曲多いんだけど。デッキ無いの?」

「俺は暫くはカセットでいく」

 何が行くのか意味が分からないが彼はそう云う。

「ねえねえ、こいびととかいないの?」 

 わたしは訊いた。

「サクは? おらんの?」

 従兄は訊き返し、わたしは当時〝わりと好き〟だった数人の男の子たちの顔を思い浮かべながら、別に、と云った。ふーん、と従兄は云い、手元の雑誌の電子回路の記事を見ていた。わたしは頬杖をついて腹這いになった体勢で、熱気で背中にまとわりついたTシャツをばたばたさせながら、

「それにしてもここ、あっついなあ。ようこんなとこ篭っとんね」

 とぶつぶつ云った。

「節操っつうもんをやな? ムネが見えるでね」

 従兄は淡々と云う。

「もうちょっと良い扇風機は無いの? これじゃ熱風放射機だよ」

「ねえよ。いや、作れるかな……扇風機……」

「……なんで発想がそうなるのかなー。作ってどうすんのん、買ってくんの」

 遠い目をする従兄に、わたしはあきれ顔を突き出してアピールする。

 やがて従兄がごろりと横になって眠ってしまう。わたしはその寝顔を眺め、咲実は毎日何処にいるんだろう、と思いながら、やがて一緒になって目を閉じる。

 

「──サク、起きろって。サク!」

 肩を揺さぶられて目を開けると、視界が急に暗くなって、ぼたぼたと妙に重量感のある大粒の滴の音がした。「……な……に?」

「夕立ち」

「……説明されなくても判る」

 従兄は守備よく濡らせない物を部屋の壁際に移動させており、わたしたちは窓から吹き込む雨滴に晒されていた。わたしは世界に激しく降り注ぐ雨を眺め、

「すごい。綺麗」

 と、感想を述べた。雷が吠える。

「Tシャツびちゃびちゃや……」

「寒い? 大丈夫?」

「平気。でも本が濡れた。なんでわたしの本までよけておいてくれへんの」

「よくこねいに降るのに寝てたあね」

 暫く沈黙。咲実は濡れていないだろうか、とちらと思う。

 そして、わたしは呟いた。

「やっぱりさむい」

「え、なんて?」

「さむいよ」

 云いながら従兄にしがみつく。彼の腕はまだ少し、晴れていたときの熱気をとどめていた。

「ねえキスしたことある?」

「え? 何な?」

「キス以上のことは?」

「サク……?」

「お互い恋人もいないことだし、いいんじゃない?」 

 夕立のノイズの向こう側で、従兄がびしょ濡れの眼鏡を外してわたしの眼を見た。

 それからわたしたちは雨のなかで唇をつけた。かおについた雨粒まで吸いながら。初めてのキスは、あじがしなくて、ただ、溶けた。雪にくちづけるかのように、何処までも溶けた。メルティ、メルティ。溶けゆくキスを追い求めるように、ずっと求め続けた。

 すこしこころがこわばっていた。つよがりになって、スレたふりをしていた。ふたりとも不器用に、そのまま頸すじに唇を下げ、熱い腕を擡げた。

 

       

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