20 机に向かって仕事をしていると、絨毯を踏むやわらかな
机に向かって仕事をしていると、絨毯を踏むやわらかな足音がして、咲実が近づいてきた。
「サクちゃん何してるの、」
云うと同時にひんやりした腕が両肩からまわされる。
「仕事。プリント作ってるの」
わたしは視線は動かさないまま、MacBookのデスクトップを指して説明した。
「よく働くのね」
感心するでも嫌みでもない単純な響きで咲実は云い、両腕がするりとほどかれた。
「サクちゃん、」
「なあに?」
「アイスたべない?」
「……さっき一緒にたべたじゃない」
淡いパステルカラーのアイスキャンディ。大量に作って、冷凍庫で冷やしておいたものだ。
「サクちゃん、」
「なあに?」
「この本、良かった?」
「どれ?」
「これ。『活字戀』」
カツジコヒ、と咲実は旧仮名のルビをそのまま発音し、わらった。
「貸してあげるよ」
わたしは云った。
咲実が壁にもたれる気配がする。
「美しい人であった」
咲実が声に出して本を読み始めた。
「美しい人であった。彼は氷から彼女を削り出して、その微笑をそっとなぞった。彼女はやがて溶け出して桜のように色づき、新しい時が流れ始めた。今こそ新しい星の裏側に移らねば──けれどもその前に、彼はその人を抱きしめる」
咲実の声は細くて、すこしつまって擦れるような感じがいかにも果敢なげに聞こえる。わたしの声とは全然似ていない。これは昔学生だったときに、わたしよりずっと出席率が低いくせに一部の男子生徒に凄くもてた理由の一つだと思う。
「細く長く伸びてゆく夜のなか、彼はロミを連れて旅立った。羽虫の黒い影が町中に蔓延っていた」
父方の祖母の家は下鴨にあり、しかし祖母は神戸の出身である。週末、祖母の家に預けられると、祖母は眠る前にわたしたちに戦争の話をしてくれた。祖母の兄も姉も皆戦争で死んだのだ。祖母は神戸大空襲の火の降り注ぐなか箪笥を背負って逃げまどったのだと云う。父も大勢の兄も皆出兵していた。三人の姉は、広島の工場で働いていて死んだ。祖母は広島の様子も事細かに話した。地獄の光景を目の当たりにさせるかのように、わたしたちの耳に囁き込んだ。
祖母は幼い頃家のなかに、死んだ一番年の近い兄が居たと語る。祖母の母はミシンを踏んで働いていて、幼い祖母が家の前でひとりあそびをしていると、おいでおいでと兄が呼んだと語る。兄と一緒にコスモス畑のなかを歩いたと語る。つらりつらりと祖母は眠りかけたわたしと咲実の耳元に語り続けた。
戦争と戦争でない時間を沢山過ごした血縁のある人々が住まう場所。
何故逃げないと死ぬのに箪笥が持つの、箪笥って背負えるの?
何故広島まで行ってミシンを踏んでいたの、それで戦争に勝つの?
どうして殺される子どもを沢山産んだの?
どうしてひとを殺すの?
わたしは誰にも訊けなかった。
咲実は戦争の話に熱中した。『えっちゃんのせんそう』に始まり、『ガラスのうさぎ』『ふたりのイーダ』『妹~中国残留孤児をさがして』『テニアンの少女』『ビルマの砂』と図書室で借りては繰り返し読み『わたしのアンネ・フランク』が彼女の一番大切な本だった。そして最期を迎える頃には、空襲がくる、空襲がくる、と呟き震えて錯乱する発作を起こした。
それは祖母が死ぬ前に数回起こした発作と同じだった。
わたしは今でも、こわい。殺される。死なされる。死んでしまう。
呪われているとしか思えない、こわい。
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